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【諸葛亮】
字は孔明


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概要


中国三国時代にて蜀漢に仕えた政治家。
劉備に三顧の礼で迎えられ配下となる。劉備の死後は劉禅に仕えた。
その後、丞相として内政に励みながらも自ら軍を率いて魏を攻める北伐を行った。5度目の北伐の最中、五丈原の戦いの陣中にて病没。

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晴耕雨読の生活


父(諸葛珪)を幼いころに亡くし弟諸葛均と共に叔父の諸葛玄に育てられた。 家族と共に徐州から南方へと移住し、諸葛玄は 豫章太守に任命されるが追放の憂き目に遭い、荊州へと移住し、劉備と出会うまで晴耕雨読の生活に入る。この時期に黄月英を妻とした。

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三顧の礼


諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。劉備軍の軍師となり、天下三分の計を唱えた。

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長坂の戦い~赤壁の戦い


諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた。
諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った。
曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、劉備・孫権の連合軍は勝利した。


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成都の戦い


戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。
建安16年、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。
劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。
諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した。
建安19年に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。


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夷陵の戦い


荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、劉備は周りの反対を聞かず
関羽の弔い合戦として呉討伐の出撃をきめ、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった。この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい」と言った。
これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。

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南中平定戦


劉備の亡き後は子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮・李恢らは益州南部四郡を征討して反乱を平定し、七縱七禽により南方の異民族を信服させた。


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天水の戦い


諸葛亮の第一北伐の際、諸葛亮の計略を見抜き、趙雲と一騎討ちをしても負けなかった姜維の才能に感嘆した諸葛亮は、姜維が蜀に降伏したと偽情報を流し、さらに姜維の偽者を仕立てて天水を攻撃させたので、姜維はやむなく蜀に降伏した。
諸葛亮は「姜維を得たのは、鳳を得たようなもの」と喜んだ。

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街亭の戦い


諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。魏はこの動きに対して張郃を派遣した。
諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進天水・南安・安定の3郡は張郃らに奪い返された。
撤退後、諸葛亮は軍律を模範的に遵守せざるを得ない立場であったため、自身の愛弟子である馬謖を処刑した。これが有名な故事「泣いて馬謖を斬る」。


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陳倉の戦い


同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の郝昭の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている。

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第3次の北伐~第4次の北伐


翌年、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。
司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。

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五丈原の戦い


第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。
病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去する。
諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言ったという。

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【趙雲】
字は子龍


概要


常山郡真定県出身。
子に趙統・趙広がいる。
忠義に厚い傑物として、劉備や蜀漢に尽くした。
中国では老将軍といえば黄忠ではなく趙雲をイメージすると言われている。
愛馬は「白龍」、得物は 「涯角槍」(がいかくそう)という長槍だったという。また、兵士の教育の際は惜しみなく自分の槍技の全てを教え込んだと言われている。

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劉備との出会い


趙雲は郡の推挙で官民からなる義勇兵の統領となる。
はじめ袁紹に仕えていたが、袁紹の人物を見限り、盤河の戦いの際に袁紹麾下の文醜に襲われて窮地に陥っていた公孫瓚を救い、彼に仕えた。
その後、各地を転戦して公孫瓚の元に流れてきた劉備と出会う。
劉備は趙雲と同じ部屋で眠るほどの信頼を示した。
しかし趙雲の兄が死に、その服喪の為に、公孫瓚の元を辞すことになった。
趙雲と劉備が次に会ったのは袁紹の客将になっていた劉備が汝南にいたころであった。
劉備に味方していた臥牛山の裴元紹が趙雲の馬を奪おうとしたため、これを返り討ちにして山塞を乗っ取った。
その後に帰ってきた周倉をさんざんに突き立てて退散させたところ、話を聞いてかけつけた劉備と再会して主従の関係を結んだ。

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長坂の戦い


劉備が樊城から十万の領民を連れて江夏に逃れる逃避行の際には、趙雲は劉備の妻子一族の警護を命じられる。
しかし乱戦の中劉備の家族を見失い、さらに自分が護衛していた甘夫人と糜夫人、そして世継ぎの阿斗も行方不明となってしまう。
そこで趙雲は曹操軍の大軍の中に単騎で駆け入り、必死の捜索を行う。
趙雲が曹操軍の中に駆けて行ったという報告を聞いて、張飛や幾人かが寝返りの疑いを持つが、劉備は「子龍は私を棄てて逃げはせぬ」と最後まで彼の忠義を信じて疑わなかった。
趙雲は曹軍百万のただ中を一騎で駆け抜け、甘夫人・阿斗などを救い出した。
その間にも、敵の大旗二本・戟三本、さらに青紅の剣を奪い、押し寄せる曹操軍の名のある大将五十人あまりを討ち取った。阿斗と甘夫人を救出した劉備は戻ってきた趙雲を見て、わが子の無事よりも、血まみれになった趙雲のために涙を流し、阿斗の体を草むらに放り投げた。
劉備は「思うに趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児の為に、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい」と言った。
趙雲は地に額を擦り付けて「肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し」と言って再拝した。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

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定軍山の戦い


黄忠を救出し、夏侯淵を斬った事から戦況は好転したものの、兵力と軍糧は曹操軍とは比べ物にならない。
趙雲は曹操軍の本体に囲まれながらも突進と後退を繰り返し、巧みに兵を操った。
部下の張著が負傷して重囲に陥った時も引き返してこれを救い出した。
城に戻ると趙雲はわざと城を開門させ、ただ一騎で前に立った。
趙雲は顔色一つ変えないでいたため、曹操軍は伏兵があると勘違いをし、気味悪がって退却した。
退却する曹操軍に向かって趙雲は一斉に弩を発射したため、曹操軍は混乱に陥り、慌てふためいて我先にと逃げたため、漢水に落ちて死んだものは数え切れなかったという。劉備に「子龍は一身これ胆なり(子龍は度胸の塊の意)」と言わしめ、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになった。

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北伐での鮮やかな退却


劉備の死後は、南征で活躍。
そして、北伐では、韓徳の息子四人を相手して、全員討ち取った。
また、鄧芝とともにおとり部隊としても活躍した。
敵の罠にはまり囲まれた時には、張飛と關羽の息子の張苞と関興に助けられた。
街亭で馬謖が敗退すると蜀軍は全軍退却することになった。
攻撃してきた曹真の軍が多数であったため敗退したが、趙雲は自ら後詰めし、軍需品をそこなわず、一兵も損ずることなく、乱れることなく見事に撤退した。
この時趙雲が持ち帰った軍需品の絹を諸葛亮が分け与えようとすると、「このたびの戦いで、三軍いま寸尺の功もなく、それがしらの罪も軽くありません。さるをかえって恩賞にあずかりなどしては、丞相の信賞必罰に反し、誹りのもとになりましょう。金品はしばらく庫内にお返しねがって、やがて冬のころになり、何かと物不自由になった時分、これを諸軍に下賜されれば、寒軍の中に一脈の暖気を催しましょう」といって固辞した。
これに諸葛亮は深く感嘆し、故主玄徳がこの人をあつく重用し、ふかく信任していたことをさすがにと、いま新たに思い出したという。

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英雄逝く


趙雲は、第二次北伐が始まろうとした建興七年に病のため逝去した。
ただでさえ人材に苦しむ蜀にとって、有能な武将の死は大きな痛手となった。
軍議の最中、趙雲の息子趙統と趙広が来たとの知らせで、諸葛亮は「趙雲が死んだ」と悟った。
趙雲の訃報を聞いた諸葛亮は、「趙雲は先帝以来の功臣、蜀の棟梁たる者であった。大きくは国家の損失であるし、小さくはわが片臂を落とされたような心地がする」と言って潸然と涙した。
成都の劉禪も声を放って泣き「むかし当陽の乱軍中に、趙雲の腕に救われなかったら、朕が今日の命はなかったものである。悲しいかな今その人は逝く」と言った。

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【張飛】
字は益德 燕人(えんひと)の異名を持つ。


概要


黄巾討伐から劉備の東征直前まで尽くした猛将。
長坂橋で曹操軍を一喝して足止めさせたエピソードが有名。
若い頃は酒による失敗で城を失うなど、酒乱で自滅することがたびたびあった。
最期は呉への復讐心に燃える暴走が引き金となり、部下に暗殺された。

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桃園の誓い


肉屋を営んでいたところに劉備と出会い、長兄に劉備、次に関羽、そして自身を三兄として義兄弟となった。

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長坂の戦い


荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操軍からの追撃を受けて寡兵状態の劉備軍の殿をうけ、当陽の長坂でわずか数十騎で橋を一つだけ残して他を破壊。
兵には背後で伏兵の存在をちらつかせながら動くよう指示を出し、自身は残った橋の上に立ち曹操軍と対峙した張飛は大軍の曹操軍にひるむどころか、一喝して相手を威嚇。
その仁王立ちぶりに肝を潰して落馬する者が現れ、曹操軍は戦意を大きく失い撤退、劉備軍は辛くも逃げ延びる事が出来た。

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益州平定戦


劉備が劉璋に招かれて益州入りした(劉備の入蜀)。劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮・趙雲・劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した
江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。
このとき、張飛は自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。
厳顔は「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいないのだ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い、彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し成都で劉備と落ち合った。
劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた。張飛は巴西太守に任じられた。

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漢中の戦い


曹操は漢中の張魯を攻略すると、配下の夏侯淵と張郃に漢中を守備させた。張郃は宕渠、蒙頭、蕩石に軍を進めて巴西の住民を奪い、漢中へ移住させようと企てた。張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用して迎え撃つ作戦を立てた。
張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、自身はたった数十人の部下と共に脱出する羽目になる。こうして張飛は張郃の軍を撃退することに成功した。
劉備が漢中を攻略すると、張飛は右将軍・仮節に任命された。
劉備は成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任されるかということになったとき、周囲は張飛に任されるものと思い、張飛自身もそう考えていたが、劉備は魏延を抜擢した。
同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した。

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荊州奪還戦


劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷公に昇進した。同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦をすることになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。
その準備をしている最中である同年6月、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。
劉備はかねてより張飛が刑罰を頻繁に行い、さらにその部下を自分の近侍として仕えさせたままでいることを戒めていたが、張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

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