9月20日に、本部から浅川先生をお迎えして、自叙伝書写講演会が行われました。


下記は、講演の内容です。


文鮮明先生の聖和式が、9月15日、韓国・清心ワールドセンターにて、盛大に行われました。


この間、国内外から、弔問も含めて、総勢で800万人以上の方が文鮮明先生の聖和に参加されました。


一般的にも、葬儀での出会いは、普段、出会わない人と出会うことがあります。


葬儀での出会いは、普通の出会いではないと言われるのです。


霊人の配慮によって出会うことができるとも言われています。


さて、


9月度の、書写のみ言は「幸福は常に私たちを待っている」です。


文鮮明先生は、生涯、一つのテーマで生きられたお方です。


一言で言えば、


「人を幸せにする」ために生涯を生きられました。


1920年代は、環境的には、決して幸せを求めてもいけないような困難な時代でした。その中で、文鮮明先生は、どうしたら、皆が幸せになれるのかを、真剣に考えておられたのでした。


では、誰もが求めている「幸せ」とはどのようなことを言うのでしょうか?


誰もが願っているのに、どうして得られないのでしょうか?


願っている、求めているということは、得られていないから、願うのであり、求めていくのです。


「幸せ」は、いつも、あなたを待っているのです。


一度も逃げたことはないし、いつでも、同じ場所で待っているのです。


なので、どんな人でも、どんな環境でも、状況でも、必ず、待っているのです。


では、何が「幸せ」なのでしょうか?


ある人は、「結婚」と言います。


また、ある人は「出産」と言ったり、


あるいは、「お金」という人もいます。


人それぞれの価値観に基づいて、「幸せ」のテーマが異なってくるのです。


次回につづきます。

文鮮明先生の聖和の関係で、日時が下記に変更しました。


自叙伝に学ぶ 心の書写


自叙伝のみ言に自分の心を合わせる事から心情革命が起こるのです。
自叙伝のみ言を書写することは、心にみ言の種を蒔く事であり、み言の苗を植え、み言を心に刻み込む事なのです。毎日、書写を継続する事により、自叙伝書写は皆様の人生に革命を起こします。


日時:9月20日(木)
 会場:藤沢教会
 受付10:00 開演10:30 
参加費:1000円


○当日は書写を行いますのでペンをご持参下さい。
 又、机がありませんので、下敷きの様な物があると便利かと思います。

講師紹介
浅川勇男(あさかわ いさお)
新潟県出身。 青年の頃より真理を探究し、数々の思想、哲学を研究。 同時に、人間の心のあり方、家庭の幸・不幸、神仏や霊界、死後の世界についても深い関心をもち、仏教からキリスト教に至るまで宗教遍歴は多岐にわたる。現在は統一思想研究院霊界研究部会の一員として、多くの文献を分析・体系化し、全国各地でその研究成果を講演している。



主催:APTF西神奈川


参加希望の方は下記までご連絡をお願いします。


ykhmhgs@yahoo.co.jp




来る、9月14日(金)、神奈川県の藤沢市民会館にて、本部から浅川先生をお迎えして、「文鮮明先生自叙伝書写講演会」を行います。


詳細は後ほど、お知らせします。


参加希望の方は、下記のアドレスにご連絡をお願いします。


ykhmhg@yahoo.co.jp



日本の「宗教感」には大きなギャップがあります。


まず、宗教者と非宗教者のギャップが大きいのです。


どんな宗教者であっても、布教される前は、非宗教者であったにもかかわらず、あるキッカケで布教され、伝道されることで、今までと違う世界(不快適領域)に入っていくのですが、その世界に入っていくと、今までのことが見えなくなってしまい、非宗教者を下に見る傾向があります。


そして、その世界しか見えなくなってしまい、「自分達だけが正しい」との主張になり、非宗教者を劣っているように見ることがあります。


非宗教者は、「宗教は弱い者がやっている」と思い、宗教者はその世界に染まっているので、ついていけないと思うのです。


特に、日本は「宗教」というと毛嫌いする民族です。


ヨーロッパや西洋では、何か、宗教、信仰をもっていない人は信じられない文化でありますが、日本では宗教者は普通の人ではないという見方が強いのです。


では、なぜ、こんなにギャップがあるのでしょうか?


一つは、宗教者は、自分の宗教の教えだけを主張するのです。


そして、他を否定するのです。


もう一つは、超越した世界観があり、現実の世界とかけ離れた価値観をもっているのです。その結果、漠然とした教理ばかりを主張するあまり、非宗教者とのギャップが出てくるのです。


人間には3つの脳があるのです。


「は虫類」


「哺乳類」


「人間」


です。


は虫類、哺乳類に、いくらすばらしい真理、超越した世界のことを伝えても理解できないのです。


それよりは、緊急性があるものが、必要なのです。


しかし、ほとんどの人は、今、自分がすばらしいと思う価値、世界観を主張してしまうのです。


考えてみれば、自分も最初からその世界観をもっていたのでしょうか?


ごくたまにいるかもしれませんが、ほとんどの人は、現実の緊急性のこと、満たされないことや穴が空いているのを埋めたいと思うのです。


「宗教者」と「非宗教者」のギャップがあるが故に、本当の意味で日本に宗教が根付かないのです。


同じ人間であることには変わりません。


なので、現実と超越した世界を統一する必要があるのです。

誰でも、


「幸せになりたい」


「もっと良くなりたい」


「もっと成功したい」


という、欲求はあります。


では、


「幸せ」とは何か。


「良い」とは何か。


「成功」とは何か。


という、質問をした時に、はっきり答えられるでしょうか?


ほとんどの人は、漠然としているのです。


現状には満足していないので、


「いつも何かが足りない」


という、飢餓感を感じているのではないでしょうか?


どうしたら、


幸せになれるでしょうか?


良くなれるでしょうか?


成功できるでしょうか?


それは、内面からの「幸せ」「良い」「成功」を得ることができれば、結果はおのずと表れてくるのです。

統一教会の中では、よく「心情」という言葉を使います。


この「心情」とは、


簡単に言えば、


「愛したいという衝動が爆発したもの」をいいます。


心の情ということで、心の深い部分でもあります。


いずれにしても、分かるようで、分からないのが「心情」なのです。


では、心情が転換されるということは、どのようなことなのでしょうか?


愛したい衝動というように、別の言い方では、与えたい情でもあります。


例えば、親が子供を愛したい衝動、与えたい情をいいます。


統一教会では「為に生きる」という教えがあります。


人間は、他の為に生きるようになっているということです。


より大きなものの為に生きることに価値をおいているのです。


為に生きることで、心情がより成長できるようになります。

人、それぞれに、いろいろな価値観を持っているということは、全く自分と同じ人は存在しないということです。


同じような価値観をもっていたとしても、全てが同じということはないのです。


価値観にも、見える価値観と、見えない価値観があります。


見える価値観は、物質、すなわち、持っている物に価値をおき、見えない価値観は、地位、名誉等をいいます。


統一教会では、永遠の世界に価値を見ています。


すなわち、神様の存在、霊界という永遠の世界、永遠の幸福、人生の目的という、一時的な価値観ではなく、永遠という価値観に目をむけています。


もちろん、物質的な価値、地位、名誉の価値観が悪いわけではありません。


この価値観の土台が永遠の価値観になれば、より大きな価値観になるのではないでしょうか。


今日は、「意識転換」ということについて書いていきます。


私たちの日常の生活においては、ほとんど見える世界に意識がいっています。


この「意識」というのは、自分にとって関心があるものが中心になります。


宗教の世界では、高等であればあるほど、目に見えない世界を意識するようになり、見えな世界を強調するようになります。


一般的には、見えない世界は四次元のような感覚がありますが、実際にはどのような世界なのでしょうか?


四六時中、見えない世界を意識することはできなかったとしても、何かの導き、何か偶然ともいえる出会い、小さな奇跡という、見えない作用を意識して、感謝することは大切なことなのです。


その導きを、神様と言っても良いし、先祖、天使と言っても良いのですが、背後の見えない世界を意識することで、より広い意味での意識ができるようになります。



本日、藤沢教会にて、讃美礼拝が行われました。


今回は2回目の開催となり、聖歌隊も前回以上に、神霊に満ち溢れる貴重な時間でした。


讃美礼拝の中で、聖歌、讃美歌、愛唱歌等を讃美することを通して、愛の革命が起こり、愛の世界に触れ、そして、心を一つにするには、愛の歌が必要になります。


大きなことを成す時には、心を一つにしていくことが、大きな力になります。


日常の中では、それぞれの環境、生活は異なりますが、讃美を通して、心を一つにすることができるのです。


参加者の中には、聖霊に満ち溢れて、最初から最後まで、涙が溢れ出ている方もいました。


次回は、秋に開催する予定です。


この恩恵を一人でも多くの方に味わってもらいたいものです。


自分がやっている宗教、信仰をもつことで、多くの恩恵や体験があると、強い確信が自然とできるようになってきますが、その教典を押し付けてしまうことがあります。


もちろん、宗教の教えを広める、伝道、布教活動はすばらしいことなのですが、広めているのか、押し付けているのかが重要になるのです。


どちらも、伝えるということでは変わりません。


伝えなければ、教えを広めることはできません。


では、何が違うのでしょうか?


「何が見えるか」が違うのです。


その宗教が、何を目指しているのか、何を広めていきたいのか、そして、何が見えるかが重要なのです。


今は、科学は非常に発達しています。


どちらかというと、宗教は目に見えない世界を強調していきますが、


今の時代は、


「見える化」する時代でもあります。