その後の水戸藩では諸生派が権力を壟断して天狗党の家族を斬首、重禁固,にしました、逃亡したものも多くいます、煩雑なので

これ以上は書きませんが、お互いが水戸藩の家臣ですので親戚どうしで殺し合いをしたのです、特にいけないのは藩主の慶喜の

兄の慶篤です、慶篤は自分の主義がほとんどないのです、ですから水戸から市川三左衛門が江戸に出てゆき意見を言えばOKを

だし、武田が江戸に出て意見を言えばそれにOKを出しました、又市川が江戸に出て反対意見を言えばそれもOKでした、ですから

藩の方針が10日くらいで変わってしまいました、もともとこうなったのは、父の斉昭が譜代重臣たちと藤田東湖らの新興家臣を共に

とりたてたからでした、それに東湖の父親の幽谷とその師匠の立原翆軒が学問上であらそつたことです、幽谷は師匠の翆軒を

「大日本史」を編纂する彰考館から追い出しました、双方に多くの子弟がいますので水戸藩は誠に険呑なものになりました、それに水戸藩

は35万石ですが実高28万石でしたので役につければうなぎをたべられ無役ではうなぎの櫛つくりが実態でした、初代の頼房は家康

の最後の子供ですが、家康は尾張藩、紀州藩のように頼房にも大石高をやりたかつたようでしたがやるまえに死去してしまいました

これが水戸藩の実態です