第一は性・血液・人種の関係が支配的である段階、第二は政治が支配的である段階、第三は経済が支配的である段階(之は無論量質的人口諸関係・権力諸関係・経済的生産諸関係・という社会学者風の三概念に対応している)。そして、第一の段階では、精神が衝動的な実在要因を阻止すること最も大(解放は従って最小)であり、第三の段階では之に反して、この阻止が最も小(解放は従って最大)である、というのである。即ち、謂わば民族主義的な時代には、精神的要因が歴史的要因として比較的有力であり、之に反して経済主義――もしそういうものがあるなら――的な時代には、夫が比較的弱い、というわけである。さてこの三段階の交替は処でシェーラーによって、何から説明されるか。外でもない衝動[#「衝動」に傍点]からなのである。この三つのものは――前に述べた――性欲・権勢欲・食欲の三つの根本衝動によって、初めて区別される外はない*。衝動が精神を決定するのであって、その逆ではない。
かくて結局シェーラーの文化社会学によれば、精神[#「精神」に傍点]は、即ち又文化[#「文化」に傍点]は、衝動[#「衝動」に傍点]の前に、譲歩[#「譲歩」に傍点]しなければならない。――アルフレッド・ヴェーバーの文化社会学にとって、あれ程審美的・唯美的・な本質であった処の高踏的な「精神」――文化――は、茲まで来ると、現実的な、あま りにも非唯美的な、衝動[#「衝動」に傍点]を背景に有たねばならぬこととなる。