実家に帰ると婆ちゃんはいなかった。

体調を崩して一ヶ月前から入院していたらしい。
病院に行くと婆ちゃんは病院のベッドで何本かの管に繋がれて、目を閉じ、両手を合わせてもごもごと祈っていた。
信心深かった婆ちゃんが祈っていることはさほど不思議ではなかった。
母が呼びかける。
「○○(私の名前)が帰ってきましたよ」
婆ちゃんは、祈りをやめない。
母がもう一度呼びかける。
婆ちゃんはうっすら目を開け、私の方を見て「今、お祈りしてるから」と言い、また目を閉じ、祈り始めた。
一瞬何を言ったのかわからなかった。
聞き慣れない、搾り出すような、低くはっきりしないこもった声だった。
私に気付いたのかどうかもよくわからなかった。
それからは、母が何を呼びかけても祈りをやめなかった。
「何か変だね、こんなことなかったのに」
母はそう言った。

翌日、病院に行くと婆ちゃんは普通に寝ていた。
母の呼びかけにきちんと答えた。
でもやはり、聞き慣れない、よく聞き取れない声だった。
婆ちゃんは、昨日私が来ていたことに気付いていたようだ。
でも神様に「祈れ」と言われたから祈っていた、皆も祈ればよかったのに帰ってしまった、と言う。
そして、神様に「この病院に死ぬまでいろ」とも言われた、と言う。
母が言うには、婆ちゃんは入院してから、祈ることもしていなかったし、「家に帰りたい」とずっと言っていたらしい。
何か食べたいという婆ちゃんに、母は1cm角に切ったカステラを食べさせる。
婆ちゃんはそのカステラを何切れも食べ、やせ細ってほとんど肉の付いていない顔をしわくちゃにして、うれしそうに笑った。
もうほとんど物は食べられず、点滴で生きているらしいのだが、その日は体調がよかったらしい。

隣にいた同じく管に繋がれたお婆さんが、笑顔で母に呼びかける。
「賑やかでいいわね、私は話し相手がいなくてね」
母はそのお婆さんとも話し相手になる。
周りを見渡すと、そのお婆さんとうちの婆ちゃん以外にも管に繋がれたお婆さんが二人いる。
一人はずっとぶつぶつ独り言を言い、たまに奇声を上げる。
一人は意識があるのかないのか目を閉じてじっとしている。
母が婆ちゃんに言う。
「お婆ちゃんは幸せだよ、色んな人がお見舞いに来てくれて」
他のお婆さんのところにはほとんどお見舞いが来ていないらしい。

翌日、病院に行くと、婆ちゃんは大きく口を開け、大きく呼吸しながら寝ていた。
少し苦しそうに見えたが、呼びかけに答えなかったので、病院を後にした。

一時間と少し後、病院から電話があり、呼び出された。
病院に着くと、婆ちゃんは既に息を引き取っていた。
老衰で特に病気もなく、恐らく苦しまずに亡くなったということだった。

幸せとは相対的なものではなく、婆ちゃんが幸せだったかどうかはわからない。
それでも、自宅でぽっくりとはいかなかったものの、ほとんど誰もお見舞いに来ない周りのお婆さん、病気で苦しんで亡くなる人に比べれば幸せな最期だったんじゃないだろうか。
少なくとも、そうであってほしいと思った。

婆ちゃんは数十年前から、自分の遺影を用意していたようで、そこには、私が子供の頃によく見たふっくらした丸顔で優しく微笑む婆ちゃんの姿があった。
自己矛盾に気付き、修正するというのは実に難しいことだ。
なぜなら人間は感情で生きているからで、本来感情は論理的にコントロールできないものだからだ。
感情を一切排除して論理的に考えるだけなら、コンピューターに計算させればいい。
そう考えると人間の素晴らしい点は、自己矛盾にあるとも言える。

いや、正しくは自己矛盾との葛藤にあると言える。
自己矛盾自体を素晴らしいとはやはり言えない。
差別反対を唱えながら、その意見に同意しない人を見下すなど、自身の差別感情に一切向き合わない人間が素晴らしいとはとても思えない。
そして、こういうことは私自身、往々にしてある。
「あれ、これってよく考えるとおかしいな」
ある日ふと気が付く。
自己矛盾は恐らく人間である以上、誰もが抱えていて、一つ気付いて修正しても、次から次へとモグラ叩きのようにわいてくる。
なぜ自己矛盾が延々わいてくるかと言えば、それこそが人間が感情で生きている証で、全てのことを論理的には考えられないからだ。
つまり人間らしく生きている以上、自己矛盾から逃れることはできない。

そして、自己矛盾に気付いてから、葛藤する。
「で、どうすべきか」
その葛藤から、機械には生み出すことのできない「歪み」とも「揺らぎ」とも言える何かを生み出すことができるのではないだろうか。
人間に素晴らしい点があるとすれば、そういったいわゆる「不完全」な部分にしかない。
つまり、自身を論理的で自己矛盾など一切ないと信じて疑わない人間がいるとすれば、それはただの不完全な機械でしかないということになる。

しかしこれはあくまで、人間に素晴らしい点があると仮定した場合で、本来あらゆる生物に素晴らしいも意味も何もなく、ただそこに「生きているだけ」なのかもしれない。
だとしても、人間は「生きる意味」や「正しい生き方」などというものを考えたがるのだから、そもそも人間の生き方が地球上で最も害悪だとしても、より良い生き方を考える方が生きやすいのだろうし、それが「人間味」などと形容されるものなのだろう。
そしてそれは人間という生物が、なるべく後悔しないように死を迎えるための唯一最善の方法なのだろう。
夏、実家に帰った時のことをふと思い出した。
小さな婆ちゃんがますます小さくなって、ほとんど寝たきりになっていた。

年も年なので、次第に衰えていくのは仕方がない。
耳も遠いので、母は必要最低限のことだけを怒鳴るように婆ちゃんに話す。
母に悪意があるとは思えなかったが、それを聞くたびに耳が痛くなった。

ドアを開け放した玄関脇の部屋にいつも婆ちゃんはいた。
婆ちゃんはベッドからテレビに向かって横たわり、いつ見てもほとんど動いた形跡がなかった。
テレビも見ているのか見ていないのか、よくわからなかった。

婆ちゃんを見るたびに、今何を思い、何を考えて横たわっているのだろうと思った。
私はご多分に漏れず核家族に育ち、婆ちゃんは私が実家を出たのと入れ替わりのタイミングで、実家に越してきた。
だから、元々気軽に会話をするような間柄でもなかったし、そんなに思い出があるわけでもなかった。

それでも、たまに会う婆ちゃんはとても優しかったし、何となく長生きしてほしいと思っていた。
しかし、もう十分長生きしている婆ちゃんは、これ以上長生きしたいのだろうか。
…考えてやめた。
そんなことは婆ちゃんにしかわからないし、病院のベッドで身体を固定されるほど深刻でもなければ、苦しそうにしているわけでもない。

しかし、自宅でぽっくり死ねる人は、日本では一割ちょっとしかいない。
ほとんどの場合、病院で延命治療を施される。
是非については様々な議論があるが、それが医療先進国日本の現状だ。
どちらにしても死にたい時に死ねるわけじゃない。

私はそんなことをごちゃごちゃ考えながら、結局、別れ際にいつも通りのことを言っただけだった。
「婆ちゃん、元気でね」