この決断は、主として豊田英二によるもので、将来を見通した結果のことだった。
ただし、成功すればよいが、実用化に失敗する可能性もあり、
リスクが伴う選択であった。

トヨタでは、石田退三社長は、あくまでもピンチヒッターであると、
再び社長の座を豊田喜一郎に譲るつもりだった。

喜一郎もそれを望んでおり、財政危機を乗り切ったことで、
1952年7月にカムバックすることが本決まりになった。
しかし、その準備をしている3月に喜一郎は脳溢血で突然死亡してしまった。