ユニコーンの日(上) 機動戦士ガンダムUC(1) (角川文庫)/福井 晴敏
¥500
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リアルに迫る創作の世界。



第七十六回目の今回は、福井晴敏さんの『機動戦士ガンダムUC』シリーズをご紹介します。

まとまった休みが取れることになり、じゃあ、何か長い物語でも読みますか、と思った時、このシリーズが思い浮かび、じゃあ、と近所の書店に行って、半分は店頭、半分は注文で入手し、一週間でシリーズ十冊、読みました。

そもそも、僕が最初にテレビで見た「ガンダム」は、記憶を探ると、『機動武闘伝Gガンダム』だったので、つまり、俗に言う「ファーストガンダム」、『機動戦士ガンダム』から続く同じ世界観のシリーズは、ほとんどテレビでは見たことがありません。だいぶ前に、『機動戦士ガンダム』の劇場版三部作を一回見たのと、何年か前に、中途半端に『機動戦士Zガンダム』と、『機動戦士ガンダムZZ』を見たのですが、うまく一本に世界が繋がっていませんでした。、この『UC』を読むに当たり、ネットで『ガンダム』の世界の年表をチェックしたのですが、「一年戦争」、「グリプス戦役」、「第一次ネオ・ジオン戦争」、「第二次ネオ・ジオン戦争」がその時点でようやく繋がり、『UC』の世界の前提が、理解できました。そんな前準備をしつつ、読みました。

この作品は、「第二次ネオ・ジオン戦争」の後の世界で、宇宙世紀百年を前に、有力な組織である「ビスト財団」が自身の後ろ盾となった「ラプラスの箱」と呼ばれるものを、「袖付き」と呼ばれる組織に渡そうとする、という状況を前に、行動を起こしたオードリーという少女、そして彼女と偶然に出会う主人公であるバナージが、混乱に巻き込まれながら、それぞれに自分の存在や思想、生き方を、時に強制的に思い知らされ、時に自ら選択し、その荒波の中を、進んでいく、というストーリーです。

僕がこの作品で一番好きな登場人物は、「袖付き」に所属する輸送船の船長、ジンネマンです。彼には絶望する過去があるのですが、それが物語の中で、整理され、そしてその絶望を抱え込んだまま、新しい方向に目を向けるようになる、というのが、僕の中ではとても輝いて見えました。主人公のバナージや、ヒロインのオードリー、そして準主役のリディなどは、まだ年も若く、これからいくらでも変化する可能性がある、と思えますし、実際に彼らはそれぞれに変化していくのですが、ジンネマンはもう中年で、それだけ色々な事を経験し、様々な事を知っているという立場です。そういう「大人」が、自分を変えていく、というのは、なかなか僕には想像しづらく、実際にそれが物語の中で起こったことは大きな驚きでした。大人は変化しない、何事にも迷わずに、失敗しない存在だ、と僕は思っていますし、そうなりたいようにも思うのですが、実際には、大人だって迷うし、失敗するものなのでしょう。そして僕が今の年齢になっている時点で、変化することは余計なリスクのように思うし、失敗が恐ろしくもあるのでが、ときにはリスクを無視して、失敗を恐れずに行動する事も、必要なのだろうを思えました。

この作品は、単純な「ロボットもの」というだけではなく、「戦争もの」でもあり、「SFもの」でもあり、それと同時にその作品世界には、「格差の問題」や、「政治問題」などがあり、「権謀術数」の駆け引きもあるので、様々な読み方ができます。すでに出来あっがっている世界観の中で物語を展開したとはいえ、迫ってくるものがありました。「ガンダム」の世界の奥深さ、完成度の高さは、そのファンの多さの理由なのでしょう。『機動戦士ガンダムUC』は、アニメ化もされ、これから最終話が発表になる段階のようです。映像を一度、チェックしたいと思っています。小説とは違う、新しいエンターテイメントになっているはずです。シリーズ十冊の原作を読むお時間の無い方は、アニメ版はいかがでしょうか。

では、今回は、この辺りで。長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。

今後とも、よろしくお願いします。




人として軸がブレている (角川文庫)/大槻 ケンヂ
¥580
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人を吸い込む文章です。



第七十五回目の今回は、大槻ケンヂさんの『人として軸がブレている』をご紹介します。

反射的に書店で買ってしまったのですが、大槻ケンヂさんのエッセイは、過去に『神菜、頭をよくしてあげよう』を途中で放り投げたことがありました。もうかなり前のことで、どうして途中で読むのをやめたのか、思い出せないのですが、今になって思うと、たぶん他の本を読むのに専念して、そのまま忘れられたのでしょう。

さて、この本は、大槻ケンヂさんの書いた短いエッセイの連続なのですが、特別、げらげら笑えり、酷く考え込まされたり、といった、そういうことは無いようい思います。それなのに、気付くと引き込まれていて、一本のエッセイが終わると、いつの間にか詰めていた息がふっと抜けて、そして次のエッセイへと意識が切り替わるような、そんな感じがしました。

大槻ケンヂさんの本は、僕は小説を何本か読んでいて、それにプラスしてラジオにゲスト出演したのも何回か聞いていました。ラジオは、野中藍さんのラジオ(あの時は、日曜日だったか、土曜日だったか、もう判然としません)や、上坂すみれさんのラジオ(これはすごく最近ですね)ででしたが、飄々としていて、不思議な雰囲気の人だという印象。小説に関しては、「ロッキンホース・バレリーナ」が一番好きです、あれはハードカバーで買いました。バンドマンを描いた作品でしたが、僕は当時、作中の人物に年齢が近い事もあってか、熱さを共有できたように感じたことを覚えています。それと、「ナックルボールの手」も、強く印象に残っていますね。どこかで見ていた、あの「手」の意味が分かったのは、学生だった僕には目からうろこでした。

話が脱線しましたが、このエッセイは、本の山からサルベージして続けて読んだ『神菜、頭をよくしてあげよう』と地続き、それもまったく段差が無い地続きのような、そんな感触で、つまり大槻さんの日常、大槻さんのフラットな面が文章になっているんだろうな、と感じます。ジャンルは多少の偏りはあるものの、それは大槻さんの個性で、その個性は幅広く、読者は気付くとそれに引き込まれている。大槻さんの個性も魅力的ですが、その一方で、文章に力があるんじゃないか、と思う。行間で語る、というよりは、文字の間で語るような、そんな感じです。文字になっていないところで語るのではなく、文字と文字の滑らかな連結で、読者を絡め取るような、そして読者も自ら絡め取られに行ってしまうような、そんな気がします。

大槻ケンヂさんに触れる方法は、今は、音楽、エッセイ、小説、の三つが強いと思いますが、音楽と文章には、それぞれ、違う面の大槻ケンヂさんが顔を見せているように感じます。僕は文章の方が好きかな。音楽は、どうも、アニメ『さよなら絶望先生』のイメージが強いのです。「筋肉少女帯」は世代的にスルーされてしまい、「特撮」も僕のアンテナにも引っかからず、まぁ、今から聞いても良いのですが、どこから手をつけたものか、と途方に暮れたり。上坂すみれさんのラジオでちょこちょこと聞く機会がありますが、そこまで拒絶反応は出ないと思うので、またCDを漁ってみてもいいかもな、と思いつつ、これからの宿題にします。

では、長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。

今後とも、よろしくお願いします。





化物語 [入門編] (講談社BOX)/講談社
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「語り」の真骨頂。



第七十四回目の今回は、西尾維新さんの『化物語 [入門編]』をご紹介します。

『化物語』は今、アニメの第二シーズンをやっていますが、僕は『猫物語(白)』はチェックしたものの、それ以降は怠けています。このシリーズは、講談社BOXから出ていて、もう十冊以上あると思いますが、僕は今まで手を出していませんでした。値段が高い、持ち運びに不便な大きさ、というのもあるのですが、西尾維新さんは、「戯言」シリーズと、「人間」シリーズを読んでいて、それがすごく好きで、もうそれ以上は無いだろうな、と思って、手を出しませんでした。アニメ第一期も、記憶を掘り起こすと、途中で見るのをやめちゃったような。西尾維新さんの作品で、やはりアニメ化された『刀語』も、アニメを中途半端に見て、原作には手を出していません。それくらい、前の二つのシリーズが、僕の中で大きいのでしょう。

さて、それがなぜ、この本を買ったかといえば、短編一本と、他に短い話が二本、という手軽な感じと、コンビニで売っていたので、ポイントで会計できたからです。なんという、読書家を志すものにあるまじき怠けぶり。

それはさておき、内容は、アニメで知っていたのですが、とても面白かった。なんというか、アニメでは描けない部分があるな、と感じる。文章と、映像と音声、という違いがあって、小説の地の文を、一から十までモノローグで語らせるわけにはいかないので、当然ですが、西尾維新さんのの文章の巧みさを感じました。セリフにも地の分にも、西尾節とも言える、テンポの良さが光る瞬間が次々とやってきて、物語に飲み込まれます。この本では、主に主人公の阿良々木暦と、ヒロインの戦場ヶ原ひたぎの会話で物語が展開するのですが、ひたぎの人格がだいぶ際どく、崩れる寸前、理解が及ばなくなる一歩手前、といった感じで、そこが、一つの肝のように思う。ひたぎという人格を成立させる西尾維新さんのバランス感覚が、すばらしいです。

さて、これを読んで、「『化物語』、良いかもな」と思ったわけですが、まだ本格的には手は出さない予定。面白いですが、ちょっと影響を受け過ぎてしまいそうな気がします。こう、現実と作り物の境界があいまいで、作品内部の法則や常識に侵食されるのでは、と危惧しているわけです。それくらい、西尾維新さんの文章には力がある。そして僕のフィクションに対する防壁が弱い(^^;)

西尾維新さんは、今、新しいシリーズを講談社ノベルスで展開していますが、興味はあるものの、ちょっと分厚すぎて、手が出ないのを思うと、僕も弱くなったな、と感じますが。もうやたらめったら何でも読める、という元気はなかなか……。

それで、今回はこの辺りで。ここところ、三週間に一度の更新になっていて、口惜しい。なかなか読書も進まず、時間配分が難しいです。そんな愚痴をもらしたところで、今後とも、よろしかったら、ここに訪れてください。

長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。




国境の南、太陽の西 (講談社文庫)/講談社
¥540
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過去から迫ってくる思い。



第七十三回目の今回は、村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』をご紹介します。

この小説は、なぜか好きで、もう何回も読み返しています。内容は、小学生の時に親しくしていた女性と、大人になって再会した主人公が、その女性と、今の自分の生活と、どちらを選ぶか、というようなところが焦点で、その問題に答えを出したが……、という展開。

この小説の主人公は、「吸引力」と表現される、自分の中に沸き起こる抗いようのない女性への思いに翻弄されるのですが、ヒロインのポジションである「島本さん」に対する主人公の思いは、僕の中では少し違うように思える。吸引力によって島本さんにひきつけられる、というよりは、主人公はもっと心の深いところ、心の根元、深奥から、島本さんを大事に思っていて、それは吸引力ではなく、もっと地味で、強烈ではなくて、静かな感情だと思う。主人公の前に島本さんは唐突に現れ、その瞬間に惹かれるわけですが、でも、主人公の心の中には、常に島本さんの影があって、ずっと島本さんを求めている。そういう、「忘れられない人」というのは誰にでもいると思う。そしてその心の中の幻を何度も何度も思い返す、ということを誰もがしているんじゃないか。主人公が島本さんに感じた吸引力というのは、他の女性に対する「吸引力」とは違っていて、それだから、この小説の読者は、自分の中にある吸引力と小説の中の吸引力が、リンクすると思う。

僕は村上作品のやや短い長編小説では、この小説が好きです。それは、僕もまた過去の誰かに向かう「吸引力」を感じるからです。でも、たぶん、その人と僕は、狭いのか広いのか分からないこの世界で、もう二度とすれ違うこともなく、あるいはすれ違っても気づかず、生きていくと思う。そして、僕はその誰かともう一度、出会いたいかを考えると、答えはでない。もう、過去の自分と今の自分は違う、相手も過去のあの人ではなく、今のあの人に変わっている。年齢も、外見も、職業も、立場も、全部が、つまり世界が、違う。それでも会いたいか、それは、決められない。たぶん、こちらからは、今のまま、特別な動きは取らないだろうな、と感じる。そしてきっと、もしあの人が僕を心の中で思い返していたとしても、あの人も僕のように、今のままを、続けると思う。そう、この「今のまま」が続いていくことが圧倒的に多いだろう世界で、『国境の南、太陽の西』という物語が描く、起こりそうで起こらないことが起こった世界に、魅力、というか、心に近い位置で閃く光りのようなものを、感じるんだと思う。

生きていく中で、どうしても変化するものがある。変化しないものは無い。それなのに、記憶の中のシーンに、今、この瞬間と、触れあうように接近するような、そんなイメージを考えてしまう。自分の中の時間が、流れているのか、それを疑う。どうも、想像する「一年」や「五年」や「十年」という時間の流れは、実際の時間の流れを体感する時に、長いように感じたり、短いように感じたり、するようです。十年経っても変わらないものが、たしかに、ある。それが良いことなのか、悪いことなのか、分からないし、そもそも、良いも悪いもないのかもしれない。何気ない瞬間、唐突に心に押し寄せる、過去のイメージ、それがこの小説の主人公の心を揺らし、それが心の奥の震えとなって、途切れなく、彼の根本に響き続けているのだと思う。そしてそれは、多くの人の持つ、響きなのではないか。

では、今回は、この辺り。長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。

今後とも、よろしくお願いします。




一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)/早川書房
¥903
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自由のない世界をソウゾウする。


第七十二回目の今回は、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』をご紹介します。
もうだいぶ前のことになりますが、村上春樹さんの『1Q84』が発売された時、書店で一緒に表紙を見せる形で陳列されていた事が、はっきりと記憶に残っています。その時は、ほとんど海外小説を読んだ経験もなく、手に取ることもなく、通り過ぎたようです。それからも、伊藤計劃さんの『虐殺器官』が文庫になっているのを見た時も、脳裏にちらっと、この本のことが浮かんだように思います。表紙のデザインが、黒字に白抜きの文字、と似ているので。そんなこともあったものの、結局、読まず、数ヶ月前までいたのです。それを読む気になったのは、アニメ『PSYCHO-PASS』を見たからです。見たのは少し後で、順番がちぐはぐ(記憶もあやふや)なのですが、『PSYCHO-PASS』に合わせて、早川書房が『「紙の本を読みなよ」フェア』を展開し、近くの書店でも、この『一九八四年』を含めた四冊が店頭に並んだので、即座に購入しました。それから、ニコニコ動画で『PSYCHO-PASS』の一挙放送があり、それでアニメを見たと思います。あれ? 本当に記憶があやふやで、順番が違ったら、すみません。紀伊國屋書店の新宿本店では、先述のフェアの拡大版なのか、ハヤカワ以外の出版社から出た『PSYCHO-PASS』に登場する書籍を集めたフェアをやっていて、その情報も仕入れつつ、実際に行ったりしたので、それもまた記憶の妨げになっているようです。何にしても、それが、この本を取った理由です。長くなりました、すみません。
さて。内容は、近未来のロンドンが舞台で、ジャンルはSFです。しかし、際立って先進的な科学などは出てきません。「テレスクリーン」という広報及び監視装置が登場しますが、それはもう今の時代では開発不可能ではないかも、と思います。主人公のウィンストン・スミスは、歴史を改ざんする仕事をしているのですが、彼は手を使わずに、音声入力で書類を作っていますね。それはさておき。作中の世界、主人公の属する国、都市、階層は、徹底的に管理されています。ありとあらゆる自由が無く、全てが国家を統制する権力である「党」に管理されている。先述の通り、歴史さえも書き換えられています。そんな社会で、主人公が恋に落ち、そして「党」に対抗しようとする組織に近づくが……というのが、カバーのあらすじです。
この小説を読んで思うことは、真実、というものが、「与えらてしまう」、ということです。そして真実と呼ばれるものは、いくらでも姿形を変えられる。自分は「真実」を知っている、と考え、それを周囲に公表したとして、もし周囲の誰もが、一人残らずが、その「真実」は「誤り」だとしてしまえば、その「真実」は「誤り」になってしまう。極まってしまえば、何が正しく、何が誤っているか、といのは、人間の生活、今の生活には、関係ないのかもしれない。最も多くの人が信じた正しさと誤りに流されていくしかない。もちろん、その流される中でも、自分の内に真実を残しておけばいい、と考える人もいるでしょう。しかし、『一九八四年』を読み終わった僕は、そうすることが、なかなか、難しい。物語の終盤、主人公がそうしようとして、そうしようとする主人公に対して「党」が行った行為を考えると、自分の内に真実を抱えたとしても、それさえも絶対ではない、と思ってしまう。
では、「真実」をどこに置けばいいか、と考えると、集団の中、となるのかもしれません。同じ「真実」を共有し、それを信じる、集団。ただ、集団の性質上、全てが一つに収束しない、するとしても妥協を生む、という点が気がかりでもある。おそらく、人間集団は、平和を歌うけれど、二つか、それ以上の数の集団が、言葉なり、あるいは武力なりをぶつけ合わなければ、バランスが取れないのかもしれない。複数の「真実」があることで、本当の「真実」が残る、かもしれない。今の世界の平和は、武力の衝突の後の、議論の衝突の時代だからで、また武力がぶつかる時代が来るかもしれない。来なければ良いと、真剣に思いますが。
『一九八四年』のような世界がくるとは思いませんが、絶対にないとは、言えない。想像や妄想の世界とはいえ、可能な限り多くの人に読んでもらって、様々な事を吟味してほしい、そんな本でした。
では、長くなりましたが、今回はこの辺りで。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。