Mother nature. Love other cureature.

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Could you tell the truth from the falsehood ?

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数年前からか、“eye wear”をカタカナで「アイウエア」と表記されたものを見かけるようになった。

これが五十音中のア行、「アイウエオ」に見えてどうも居心地が悪い。
アルファベットをカタカナに起こす必要があったのかと考え込んでしまう。

以前、Bボーイの中で「むかつく」、「ださい」といった意味で“ディス”という隠語が流行った。

この場合、隠語を使うことが仲間意識を強調する作用があるのだろうか。

これが現在“ゲス”が取って代わって使われているそうだ。
“ゲス”は“ディス”が変化したものか、それとも「下衆」からきたものかはわからない。

“ディス”は恐らく“disgust”からきてるのだろう。
使用されている意味の近さからも“ゲス”よりはマシだと言える。

もう一つ。
“ガチ”より真剣さが増した状態を“セメント”と言うらしい。

“ガチ”→死んでもいい覚悟 
“セメント”→殺してもいい覚悟

これを友人に話してみたら
「信長やな。」と一言。

どうやら彼女の連想は「殺してもいい覚悟→織田信長」というように進行したらしい。

この連想センスは僕的にはアリだった。

「好き」(異性が)という言葉あるいは感情はどのように定義されるのか。
といったことは我がピアグループにおいてたびたび議論されたテーマであった。

まだこれを満足させる答えを出せた者はいない。

「そんなん人それぞれやん。」
なんて馬鹿なことを言ってはいけない。

たしかにあるその感情に「人それぞれ」なんて意味のゆるみもたせては、「好き」という感情が共通概念であることさえ疑わしいではないか。

「定義する必要なんてない。」
なんて馬鹿なことを言ってはいけない。

じゃあ。その感情を説明不能のまま対象になげかけてしまうんだね。
君は。

「好き」は極端な自己同一化だと思う。

どういうことかというと、
相手の仕事はうまくいっているかとか人間関係は円滑だろうかといったことが異常に気になる。

これには不満はないだろう。

同じ職場、クラスメート、ピアグループにカップル(古い言葉だな)ができやすい。立場が近いほど自己同一化は当然起こりやすいのだから。

しかし。しかしである。
それだったら対象が異性である必要は必ずしも、ない。

もちろん同姓どうしにセックスは成り立たない。

が、私たちは「好き」でなくても当然「できる」し、極論するつもりはないが、世には「男は怒りですら勃起できる生き物だ。」という言説も存在する。

そもそも「恋愛=セックス」なんてのは危ない等式ではありませんか。

ひとりよがりになってはつまらないのでこのあたりでやめにしよう。

念のために。
私はストレートです。ゲイの皆さん、ご容赦。

ただ、ただね。
知った顔してすましているより、「好きってなんなん。」と問い続ける人生が素敵だと思うのですよ。

親父さん!


先日、ハルモ二(ばあさん)の見舞いに行ってきた。
秋に炊事場で転倒し、骨折して以来の寝たきりであった。

病院の受付で病室を問い合わせると自分がハルモ二の名前を知らないことに気づいた。

「ああ、俺はハルモ二の名前も知らなかったのか。」
と恥じ入った。

しかしである。

おばに電話して尋ねてみたら、 「知らんなあ。」
とのたまった。
おいおい、親の名前を知らんのはまずいやろ。

ところが、実家に帰った折にオモニ(母)に聞いてみると どうやら彼女は本名の他に通称名を持ち、

しかもこの通称名を過去に3回ほど風水学的に“改名”していることがわかった。

なるほど、これじゃあ固有名詞であるはずの名前が形骸化してしまうのも もっともな話である。

朝鮮人らしいといえばそれまでであるが、現代的に考えれば名前を変えるというのは不幸なことであるに違いない。幸せな人が改名することはちょっと考えられないからだ。

彼女が通称名を名乗らなければならなかった事情は存じ上げないが、 グローバル化の只中にある日本においては、その牽引者の一人である 孫正義氏が「国籍は便宜上のものになる。」と言い、彼自身、日本国籍を所得後も本名を名乗っている。

どうやら在日外国人が本名を名乗るdisadvantageは急速に失われそうである。

ほおら、通称名を持たなくてもいい時代はもうすぐですよ。
親父さん!


     おわり

マジョリティコンプレクスという言葉があるらしい。

例えば、町の流行なんかにはなにがなんでも離反しようとする人を指したりするらしい。

しかしである。モノおよび出来事が希少であれば、希少であるために価値がつくこともあるだろう。

限定1000足のNIKEの靴は、それだけで価値があるわけだ。
報道の世界においても「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」

というのが通説である。

理念もなく希少性を希求する状態を揶揄する意味が、このマジョリティコンプレクスという言葉にあるようだ。


例えばである。

私が町をフラフラと歩いていたら、かつてフラれた女が好んでつけていた香水の匂いがするのに気がついた。もちろん近くにその女がいたわけではない。

その時初めて、その女がベタな香水を使っていたことを知った。


なんてしたたかな女なんだ!!

その女はベタな香水を、フッた男がその匂いに出会うたびに身悶えするのを意図して使っていたに違いないのだ。

どうやらマジョリティに属することはなかなか合目的的でもあるようである。

さあ、そろそろベタな香水を全身にふりかけ、町に出掛けてもいいんじゃないですか。

親父さん!

最近読んだ本に面白いことが書いてあったので紹介したいと思います。

『プレイボーイにならないために』というタイトルのこの論文は、

「お金がないという愚痴をくり返したまえ。」

と言っている。具体的には…。 

百円のコーヒー代をごちそうするときには百円札を三回ぐらい数えてから支払い…「ここのコーヒーは高いなあ」という顔をするのも一法である。(もちろん、百円札はキレイに折りたたんで財布に入れておいて、その支払いにおいては「百円ですか?」と二度ぐらい聞き返してからとり出すというのも一つのやり方である) 

原文のママ

これ読んで、一人下宿に響いた笑い声の後にはなぜだかむなしさが残っていたのは言うまでもないことでしょうか。

大真面目に書かれたこの「プレイボーイにならないための方法」、逆をやってもプレイボーイにはなれないことを私は知っています。

もしこれを実践したことがある人、あるいは私の代わりに実践してくれる人がいらっしゃいましたら、ぜひ私の方までご一報ください。では!