こんにちは!

 

 

 

今までのストーリーはコチラ↓

ダイヤモンド第1話 Yuzuストーリー 〜私、このような親の元にやってきました〜

ダイヤモンド第2話 Yuzuストーリー ~〇〇両親と冷めたわたし~

 

 

 

 

 

今日は小学生の頃の話を。

 

 

 

 

 

新○○教活動に

没頭するようになった母は

家を空けることが増え

幼稚園から帰ってくるときのバスにも

お迎えが遅れること増え

私が小学生になった頃には

母が働いているわけでもないのに

自分で鍵を開けることが増えました。

 

 

 

 

 

家の前に母の自転車がなければ

不在のしるしなので

秘密の鍵の置き場所へ行って

家に入る、という毎日キョロキョロ

 

 

 

 

 

自転車がないときは

「またいないのか、、」と

心の中でため息ついてました

珍しく自転車があるときは

会員さんたちの自転車も

たくさん並べられているほど自転車

 

 

 

 

 

狭い家に何人ものママさんと

小さな子供たちがいるので

部屋がない私は

遊びから帰ってきたら

子守りをしたり

 

 

 

 

 

よそのお子さんの

幼稚園の迎えに行ったり

自分のきょうだいの延長保育の

迎えに行って自転車をおしながら

小さな手を引いて歩くことも。

 

 

 

 

 

好きなアイスを買ってあげるのも

わたしの楽しみの一つでしたソフトクリーム

 

 

 

 

 

笑顔でその日の話をしてくれる姿は

本当に癒されましたラブラブ

(子どもたちも純粋で可愛くて

笑顔に癒されていましたよニコニコ)

 

 

 

 

 

当時、母も会員さんも

タバコを吸う人が多かったので

何人もの人から

買ってきてー、と言われて

お金を預かり

いくつも買って戻ることも。

(今は、年齢チェックが

厳しくなってますけどねびっくり)

 

 

 

 

 

このときに耳に入ってくるのは

家庭の悩みばかり。

(悩みがあるからこのような活動に

 集まってくるんでしょうけど)

 

 

 

 

 

この頃から

(きょうだいは可愛かったですが)

自分の親にうんざりするばかりでなく

「家族」という単位に

いいイメージはありませんでしたキョロキョロ

 

 

 

 

 

悩んでいる人たちは

私に向かって

 

 

 

 

 

「親の言うことをしっかり聞いてれば

間違いない。

今から”いいこと貯金”をしていれば

大人になってから幸せになれるよ。」

と言っていました。

 

 

 

 

 

なので現実が苦しかったので

他の子はさせられないようなことも

嫌な顔せず動いてました。

 

 

 

 

 

そして、母が活動に没頭してから

少ししたときのこと。

 

 

 

 

 

いつものように何かがきっかけで

父が母に手を挙げていたとき

最初は

母は手を挙げられるままで

泣くだけだったのですが、、、

 

 

 

 

 

今までの我慢を吐き出すかのように

大きな声を上げながら

初めて父に反撃をしたのですびっくり

 

 

 

 

 

子供ながらに

活動に行くようになって

変わった母に驚いたし

酔っていた父もさすがに驚いてました。

 

 

 

 

 

それはそれでよかったのですが

わたしも巻き込まれることも、、、

 

 

 

 

 

活動の一つに子どもたちの枠もあり

週末に連れて行かれたのは

さらにストレスが増加ガーン

 

 

 

 

 

家でさえも休まらないのに

人が多いところは

かなり疲れるし

自分から輪の中に入れなかったので

ぽつんといなければならないのも

苦痛でした。

 

 

 

 

 

これはさすがに嫌で

行きたくないことを母に伝えましたが

 

 

 

 

母は

「仏さまやご先祖さまが喜ぶこと

(この活動に参加すること)をして

いいこと貯金をたくさんして

幸せになってもらいたい」

と泣きながら、ときには

ヒステリックに言われるので

いやいや行ってましたもやもや

 

 

 

 

 

この頃からその団体で

よく使われている

ある占い(!?)のようなもの

(書店でもふつーに見かけるものだと

大人になってから知りました)

をもとに

母が話すことが増えたのです。

 

 

 

 

 

わたしのタイプは

母の言い方をそのまま書くと

言葉が刃物になるくらい

選ぶ言葉がきつくて

人を崖っぷちまで追い込めてしまう

というもの。

 

 

 

 

 

後々に自分で調べたり

他の人の解釈を聞いたら

 

 

 

他人には言われたくない

的を射る言葉で

逃げ場をなくしてしまう

(要は、鋭い、ってこと!?)

 

 

 

とも言えるようですが

 

 

 

 

 

私の言葉が

母に逃げ場をつくらない

ものだったことが多いみたいで

よく嫌味を言われていました。

 

 

 

 

 

時には、

「うちの娘がね、」と電話口などで

私が言ったことを話し

「だからこのタイプとは

話すのが怖いのよ」

とネチネチと言われてました。

 

 

 

 

 

もうヤダ

これが本音。

 

 

 

 

 

両親とも

一緒にいることが

辛くてしかたありませんでした。

 

 

 

 

 

でも、図らずも!?

祖母がこちらに

泊まりに来たときに

大ダメージを

受けることになったのです。

 

 

 

 

 

夕方に祖母と2人で家にいる時

「もう辛い、ヤダ」と

大泣きしたのを覚えてます。

 

 

 

 

 

ものごころついてから

母にハグされた記憶はないですが

祖母が優しく包み込んでくれて

背中をさすってくれたのを

覚えています。

 

 

 

 

 

「そういうことがあったんだ。

よくがんばってるね。

何かあったら

仏さまのすがたをよく見るんだよ。

大丈夫。」

と、その後。。。

 

 

 

 

 

励ますつもりだったのでしょうが、、、、、

当時の私にはう思えない言葉を

耳にすることに。

 

 

 

 

 

そのままの穏やかな口調で

 

みーんな、親を選んで

生まれてくるんだよ。

〇〇もお父さんお母さんを

選んで生まれてきたんだよ」おばあちゃん

 

と、、、、

 

腕の中で

泣きじゃくっていた私は

この言葉で

背中がビクッチーンとなったのを

覚えてます。

 

 

 

 

 

「選んじゃったのは私だから

泣き言いっちゃいけないんだ、、

選んできちゃったのは

私のせいなんだ、、」

 

 

 

 

 

それから一層感情を

出さなくなりました。

 

 

 

 

周りを意識して行動することは続き

絵を描くことも

授業の最後に少し書く感想文でも

とにかく苦痛でしかたありませんでした。

 

 

 

 

 

絵は大きな画用紙に

小さくポツンと

しかも薄ーい色しか

使わなかったものしか書けず

親が学校に

呼び出されていました。

 

 

 

 

 

私にとっては

表現すること

というのは

大きな壁になって

学生時代を

過ごしていくようになります。

 

 

 

 

 

友達に相談できるわけでもなく

新○○教では

イイこと貯金を

できていたかもしれないけれど

相談できる場でもなく

嫌がる場に足を運び

夜は神経ピリピリして過ごすという

、、、、、

ほんとに疲れました。

 

 

 

 

 

小学生になって

一方的な価値観で

縛られるストレスが増え

 

 

 

 

 

家は変化なかったですが

きょうだいや

小さな子どもたちの

笑顔のおかげで

頑張って生きることができました。

ありがとう。

 

 

 

 

++++++++++

 

、、、と、しんみりした感じに

なってしまいしたびっくり

 

 

 

この時期は友達との思い出などもなく

ほんとに必死だったのです~。

 

 

 

 

この先、「自分ストーリ」は

どのような展開になっていくのでしょう(笑)

 

 

 

 

よかったら次もご覧くださいねキラキラ

 

 

 

 

今日も良い一日となりますようラブラブ