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ストーリーの続きです!

 

ダイヤモンド第1話 Yuzuストーリー~私、このような親の元にやってきました~

 

 

 

 

 

 

 

最初は受け身だった母が

少しずつ新〇〇教の活動に

参加するようになったので

家にいる時間は減りました。

 

 

 

 

決して子育てにずさん

だったわけではないと思いますが、

病院は家から

電車とバスで1時間半くらい

かかるので気軽に来ることは

できない距離ということもあり

 

 

 

 

母が活動に必死なあまり

私が一人で過ごすことも。

 

 

 

 

入院中、小児病棟に空きがなく

しばらく大人と同じ部屋だったときには

 

 

 

 

 

食事の時間ほとんど一人で

同じ病室の方々に

「また今日も一人なの?

自分だけで偉いわね」

 

と、言葉をかけられ

いたことは覚えています。

 

 

 

 

このとき、私はどんな反応を

していたんだろう??

 

 

 

オペ後の消毒や注射の痛みで

すごく泣いたことは

覚えていますが

 

 

 

 

親にも周りの人にも

 

 

「寂しい」という言葉は出さずに

「しっかりしなきゃ」真顔

 

と自分に言い聞かせていたのは

覚えています。

 

 

 

 

 

しばらくして

小児病棟に空きができてからは

同じ病室の子たちと

遊んだりしていたようです流れ星

(後から写真が出てきました)

 

 

 

 

 

 

父は生い立ちからの

ハングリー精神は

かなりあったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

飲んで暴れていて多分

職場の方々にも

ご迷惑をたくさんかけいたとも

思うのですが

結果も出す人だったようですおいで

 

 

 

 

 

さぁ、ここで問題ビックリマーク

母は、新〇〇教と子育てに

いそがしく過ごすことに。。

 

 

 

 

 

この先に待っていた

出来事とは何でしょう?

 

 

 

 

 

父の自由な行動に

拍車がかかっていったのですガーン

 

 

 

 

 

 

それに祖母は

我慢ができなくなり

私がいる場で

別れるように話をし始めました。

 

 

 

 

 

その流れで

私がどちらと暮らすかを

両親で話すわけではなく

幼稚園生だった私に

決めるように言われましたポーン

 

 

 

 

 

親戚も集まって

大人ばかりで

緊張感走る場で

 

 

 

早く決めなさい

どうして決められないの。

 

 

 

 

と何人もの大人に言われるも

決められず困り果てていました。

 

 

 

 

 

 

 

特に祖母はその場で決着を

つけたかったようなのですが

私が泣きながら

 

「どっちかだけに決められない」

 

と言って祖母は諦めました。

 

 

 

 

 

 

(会員の人たちからは

「娘さんが家族の絆を保ってくれて

この家族を支えてくれている」

 

 

 

と後々まで言われ、

大人になってからも

うんざりした言葉ですが

 

 

 

 

子供なりに必死に

家族の平和を考えていた頃は

「自分がしっかりしなきゃ」と

言い聞かせていました。)

 

 

 

 

 

しばらく

 

 

 

「お前は、私を選ばなかった」

 

 

 

と、父からも、母からも

2人でいるときに言われたのは

キツかったな、、、

 

 

 

 

 

しっかり家族を支えることが

私の役目、という

勝手な思い込みが

できあがっていたので

 

 

 

 

 

 

父が暴れて

母を守れなかった度に

「私がしっかりしてないからだ」と

自己否定をするように

なっていたと思います。

 

 

 

 

 

力で父に勝てないのは

明らかなんですけどね(笑)笑い泣き

 

 

 

 

 

それから

小学生になっても

心穏やかに過ごせることはなく

 

 

 

 

 

学校から戻っても

新○○教でいそがしい

母親はいないし

夜は静かに眠れるのか

夜中に起こされないか

緊張と憂鬱な気持ちで

過ごすばかりでした。

 

 

 

 


 

 

 

 

いろいろな経験をした私が

今になって冷静にな振り返ると

母は心細かったのだとも

思いますが

 

 

 

 

 

 

家で何か起きると

すぐに車車で2時間くらいかかる

母ののきょうだいに

連絡して

 

 

 

 

 

親戚に父をなだめに

来てもらってました。

 

 

 

 

 

 (父は頼れる人がいないので

母が親戚を頼ることにさらに

嫌な気持ちをしていたようです。

 

 

でも父は変わることもないので

 

 

 相変わらず飲む

→母がは困って親戚へ連絡

→父は不快感でまた飲む

…仕事のストレスなども

あったと思いますが

 

という

悪循環なだけなのですが)

 

 

 

 

父は外向けの顔はいいので

親戚が来るとなると

アルコールが残っていても

コロッと人が変わるのです。

 

 

 

 

 

ただ、親戚の家に

電話するのは

幼稚園の頃から

私がさせられてました電話

 

 

 

 

母は手を挙げられて

動けなかったので

番号を言われるままにかけ

助けを求める、、

 

 

 

 

それまでの時間も

父が落ち着かず

 

 

 

 

 

私が2人の間に入っても

変わらなければ

 

 

 

 

 

ベランダを開けて

泣きながら

「誰か助けてー」

と言ったこともあります。

 

 

 

 

 

(母は駆け落ちした

自分を責めていたからなのか

やり返すことはなかったのです。

 

 

 

 

 

、、、ですが、新○○教で

過ごす時間が長くなってから

変化がでてきます)

 

 

 

 

父は酔っていると

何にキレるのか分からず

物音立てるのも

神経ピリピリ。

 

 

 

 

私はどうすれば

穏やかに過ごせるのか

気をつかっていたので

 

 

 

 

 

この頃から

自分の感情は出さず

周りの顔色をみて

過ごすようになっていたと

思います。

 

 

 

 

 

狭い家なので

寝ていても父の怒鳴り声で

目が覚めることも

普通だったので

 

 

 

 

なので安心して眠りたかった

というのが願いでした。

 

 

 

 

外を歩いていて

無邪気に親に甘えている

子供たちの姿を

羨ましく眺めることも

よくありました。

 

 

 

どうしてうちは

違うんだろう、、、

 

 

 

と、声に出せなくても

悩むことは

よくありました。

 

 

 

 

 

助けを呼んだら

親戚が来てくれて

一時的におさまるものの

 

 

 

 

父がお酒をやめることに

つながることはなかったです。。。

 

 

 

 

 

 

家族のことで

辛いことや

近所に対して恥ずかしい気持ちになること

などいろいろありましたが

インパクトが強かった

出来事は2つあります、、、

 

 

 

神経つかいながら

家で過ごしていたわけですが

 

 

 

 

 

夜中に父が食器を投げて

割ってしまったときは

母がその夜中のあいだに

片付けてくれていました。

 

 

 

 

 

一度だけ朝の様子を

覚えているのですが

前の日も暴れていたので

ある程度、割れ物が片付いた中

大人用の大きなスリッパを履いて

幼稚園に行くために

玄関に移動しようとしたとき

 

 

 

 

イタッびっくり

 

 

 

かかとに痛みを感じて、、、

 

 

 

すぐ見たら

白い靴下がみるみるうちに

赤くなっていて、、、

 

 

 

その様子に驚いて泣いてました。

 

 

 

 

ガラスの破片が

まだ残っていたのです。

 

 

 

 

母が慌ててケアをしてくれ

 

 

「ごめんね」

 

 

と動揺しながら

何度も謝っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、別のときには

こんなこともありました。

 

 

 

 

 

 

 

幼稚園へ行く前のこと

何気なく頭を触ったら

 

 

 

 

ツルッ

 

 

 

 

 

え??

 

 

 

 

 

もう一度同じ場所を触っても

 

 

 

 

 

ツルッ

 

 

 

 

 

 

 

ない??

 

 

 

 

 

そう、髪の毛がなかったんです。

10円ハゲニコ

 

 

 

 

 

 

 

髪の毛がないことに気づき

母に

「このあたり髪がない」

と伝えたら

 

 

 

 

 

このときも動揺しながら

何度も謝っていました。

 

 

 

 

 

ピリピリして過ごした結果

10円ハゲができてました笑い泣き

 

 

 

 

 

でも、母は父と別れることは

しなかったんですよね、、、

 

 

 

 

 

 

 

そのかわり

新〇〇教に

 

ますます

 

足を運ぶように

なっていきました~(´・_・`)

 

 

 

 

 

 

大まかな表現ですが

 

 

人のために動いて

いいこと貯金をすると、、、

 

ピンク音符家族の幸せとして

かえってくる

 

ピンク音符イイことがある

 

 

 

という考えが

そこにあったのです。

 

 

 

 

母の願いは

 

ブルー音符子供ができたら変わってほしい

右差し父は相変わらず

 

ブルー音符子供たちに幸せになってもらいたい

(この頃には私にきょうだいが1人いました)

 

 

ブルー音符母自身が自分の決断が

間違っていたことにしたくなかったから

家族で幸せになりたかった

 

 

 

という

気持ちがあったから

ものすごい勢いで

のめりこんでいったんだと思います。

 

 

 

 

 

父はこの活動に

猛反対していたので

さらに暴れる原因にもなり

私からすると

どれもこれもが

悪循環でしたてへぺろ

 

 

 

 

 

私は自分の感情は出さず

何に希望を見出すわけでもなく

冷めた気持ちで

過ごしていました

 

 

 

 

パワー溢れる両親と

冷めたわたし

家族での時間は

このように流れていきました~。

 

 

 

 

 

今日はこのあたりで(笑)

よければ続きを

待っていてくださいね!

 

 

 

image

出かけているときに見かけた一コマ。

イヌの姿がインパクトあり思わず撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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