ご訪問くださりありがとうございます。

 

 

 

 

 

自分のストーリーを

掲載していきますニコニコ

 

 

 

 

私がこの活動をしているのは

安全・安心を

感じながら毎日を過ごせる人が

一人でも多く増えて欲しいから。







一人で抱え込まなくて大丈夫、と

知ってもらうためでもありますラブラブ





 

 

 

よかったら

お付き合いくださいねキラキラ

 

 

 

 

 

 

私のストーリーを

語る場合

あとに出てくる

 

「〇〇」

 

というキーワードに

関係してくるので

親のことから書いていきますねニコニコ

 

 

 

 

 

父は大阪生まれ。

父が3歳頃に

お母さんがなくなり

その後継母ができました。

 

 

 

 

 

 

 

父のお父さんは

私が生まれたときには

他界していて会ったことが

ありませんが

 

 

 

 

 

 

当時、関西でも名のある大学に行き

それなりに教育を受け

大人になってからは

仕事でとてもいそがしかったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

その祖父は再婚し

新しい家族で落ち着けるかと

思ったもののそうはいかず、、

 

 

 

 

 

 

 

継母との間に

2人の男の子ができてからは

継母にとって

長男である父が邪魔で

父はよく手を挙げられていたそうキョロキョロ

 

 

 

 

 

2人の男の子のうち

1人は父に優しく

今でも連絡を取っているようですが

 

 

 

 

 

もう1人は継母と一緒に

父をいじめていたそうで

音信不通とか。

 

 

 

 

 

祖父は仕事がいそがしくて

家でゆっくりできませんでしたが

父の怪我の様子も 心配になり

 

 

 

 

 

継母の親がいる

大阪から鳥取で

育てられることになりました。

(もちろん

父と血の繋がりはない人)

 

 

 

 

教育は大切だからと

父宛に十分なお金を

送ってくれていたようですが

 

 

 

 

 

父にとっては

肩身の狭い思いをしながら

生きていることは

とても辛かったようです。

 

 

 

 

まだまだ父の生い立ちのことを

書けるのですが(苦笑)キョロキョロ

 

 

 

 

 

ここまで私が知っている理由は

父がお酒を飲んだら

人が変わってしまい

暴れることもありますが

 

 

 

 

 

このような話を

泣き叫びながら

繰り返ししていたのです。

(近所迷惑ではずかしかった、、)

 

 

 

 

 

 

母は気が滅入ってしまうことが

多かったので

必然的に聞き役は私だった

という感じです。

 

 

 

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(内容と関係ない画像ですが

気分転換に一枚どうぞ♬)

 

 

 

 

 

 

 

さて、次は母のことを。

関東生まれの母は

きょうだいが多くおり

その中の末っ子で

家は商売をしていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

母が5歳くらいの頃、

母のお父さんは 癌になり

 

 

 

 

 

 

 

母のお母さんは

新〇〇教の方から

「癌が治るように修行をしましょう」

と声がかかったようです。

 

 

 

 

 

 

母などを除く

母のきょうだいの何人かは

若い頃かなり熱心に活動に

参加していたようです。

 

 

 

 

 

 

 

ですが間もなく

祖父は他界しました。。。

 

 

 

 

 

 

なので、

母は祖父との記憶が

ほとんどなかったことや

 

 

 

 

 

祖母は女手一つで

たくさんの子ども育てつつ

新〇〇教の活動が中心になり

家にあまりいなくて

寂しかったようです。

(この活動も

あとあとまで影響してきます)

 

 

 

 

 

 

そして他のきょうだいと

比べられた上に

褒められる言葉が

自分になかったことは

コンプレックスの大きなもとに

なっていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

母は、寂しい気持ちと

自分への自信のなさから

明るい気持ちで

過ごせていなかった、と

話していました。

 

 

 

 

その2人が関東で知り合い

結婚も考えるようになったとか。

 

 

 

 

父方の家には

挨拶に行った、程度しか

聞いてませんが

 

 

 

 

母方の家に行ったら

猛烈に反対されたそうです。

 

 

 

 

 

 

母のお母さんは

父の家柄や

生い立ちなどが気になっていました。

 

 

 

 

 

というのも、、、

その家の因縁を受け継ぐことに

なってしまうから

母に苦労をさせたくなかったようです。

 

 

 

そして、母の名字が

変わったときの

総画数が

とてもよくないということで

輪をかけて猛反対していたとかもやもや

 

 

 

 

 

この「画数」っていうのも

あとあとまで関係してきます(笑)

 

 

 

 

 

 

 

父は、自分のビジョンや

実家の資産のことも話して

(→これも後から厄介なことに)

心配なく大切にする、と

話していたのですが

 

 

 

 

 

 

賛成してもらえず、、、

 

 

 

 

 

、、、

 

 

 

 

 

 

とった行動は

 

 

 

 

 

 

駆け落ち

 

 

 

 

(パワフルですねー(笑)笑い泣き

 

 

 

 

 

祖母は末っ子の母を

(母は寂しい思いをしてましたが)

大切に育てていたので

書置きを見たとき

ショックで泣き崩れていたと

後になって親戚の人から聞きました。

 

 

 

 

 

父はもともと

頼れる人がいませんでしたが

 

 

 

 

 

 

母も頼れる人がいないまま

新しい生活がスタート。

 

 

 

 

 

 

さぁ、それからどうなったか??

 

 

 

 

 

 

 

(最初に書きましたが

お互いそれぞれの

 

寂しさ

 

があったのです。チーン

 

 

 

だからこそ

自立した2人の描く

理想の家庭像ではなく、

寂しさを埋めるように

お互いに求め合う理想の家庭像が

あったのだな、と

 

 

 

 

私が社会人になってから

感じるようになりました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の酒癖は変わらず

父を大切にしてくれる人、母と

結婚したことで大船に乗って

好き勝手に過ごしていた様子ポーン

 

 

 

 

 

 

 

母は自分の選択が

間違ってなかったんだと

思いたかったし

 

 

 

 

 

後に戻れない意地もあり

父に手を挙げられても

耐えた

 

 

 

 

 

とも後になって話していました。

 

 

 

 

(ですが、母もただ

好きだったんだろうとも

思いますがおいで

 

 

 

 

 

1人目の赤ちゃんが

できたときは

育てられる余裕がなかったらしく

さよならをしたそうです、、、

 

 

 

 

 

どれくらい時間が経ってからか

わかりませんが

その次に私が

母のおなかに宿ったそう晴れ

 

 

 

 

 

母は、子どもができたら

父が自覚を持って

お酒に飲まれない人に

変わってくれるのではないか、と

思っていたそうです。

 

 

 

 

 

ですが、

狭い家にもかかわらず酔っ払っては

会社の人を夜中に連れ込んで騒ぎ立て

妊娠中に体調が優れない母に構わず

好きなように過ごしていたとか。。。

 

 

 

 

どこかのタイミングで

里帰りして出産の日。

 

 

 

 

 

 

台風台風で他にも何人か出産の方が

いたそうですが

停電になってしまい

その中での出産は

大変だったようです。

 

 

 

 

 

 

私が小学生になって

分別がつくようになった頃

笑いながらですが

 

 

 

 

「停電だったから別の子供を

連れてきちゃったのかもね〜」と

何度も言われていて

 

 

 

 

子供ながらに

気分を害していたのを

よく覚えてます口笛

 

 

 

 

 

(私が大人になってから

出会った本で、

「自分が産まれた日の天候は

その人の人生をあらわす」を読んで

 

 

 

 

 

「台風、停電、、、

大変なときに生まれてきた

私の人生って、、、」と

ショックを受けたことを

ハッキリ覚えてます(笑)

 

 

 

 

今は、その気持ちも

かなり昇華できましたがてへぺろ

 

 

 

 

 

産声を上げたとき

仕事でそばにいられなかった父に

連絡したら

そうとう酔っ払いながら

喜びの雄叫びを上げていたそうです。

 

 

 

 

(気が小さいこともあってか

父はこれから先も

お酒を止めることは

ありませんでした~。)

 

 

 

 

自分ではまったく

想像つかないのですが(笑)

私が2、3歳の頃

父が会社に行くだけでも

離れたくないと

朝からよく泣いていたそうです。

 

 

 

 

父が夜中に暴れた翌日は

両親ともに朝起きるのが辛く

私が幼稚園に行くようになってからは

バスバスに間に合わず

母の自転車でダッシュすることも。

 

 

 

 

 

祖母や母方の親戚と

私がきっかけで少しずつ交流が

もどってきたそうですが

父は相変わらず。

 

 

 

 

 

 

 

私の祖母が入会した新〇〇教は

母は実家にいた頃から

参加しておらず

父と結婚してからも

変わらぬままでした。

 

 

 

 

 

 

が、当時、飛び込みで

家に訪問する勧誘があり

我が家にも

来るようになったらしいのですが

長いこと断っていたそうです。

 

 

 

 

 

その頃、私は身体が弱かったらしく

すぐ熱出したりしていたようで

 

 

 

 

 

あるとき、私が

「息をするのが苦しい」と

母に伝えたものの

まともに受け止めていなかったようですが

何かがきっかけで

近所の小さな病院に行ったら

 

 

 

 

 

すぐに大学病院に行くように、と

お医者さんに言われ

紹介状を持って

慌てて行ったそうです。病院

 

 

 

 

 

 

私には全く記憶にないのですが

いつも来ていた女性の方に

幼稚園年中の頃私が

「わたし、あしたから入院するの」

と、話したらしく、、、

 

 

 

 

 

それを聞いたその方は

このまま玄関先で

断られて帰ることの繰り返しではなく

手術が無事に終わるように

皆で念じなければ、と思ったらしく

 

 

 

 

 

 

今まで以上に強いおしで

家に来るようになり

とうとう母はお手上げ状態に

なったとか。

 

 

 

 

 

(当時の人々には、

「私の一言がこの家族を救った」と、

大人になってからも言われ続け

うんざりしていました。)

 

 

 

 

 

最初は受け身だった母でしたが

少しずつ活動に参加するように

なっていたようです。。。

 

 

 

 

今日はこのあたりでニコニコ

 

 

 

 

 

また続きも読んでもらえたら

うれしいです流れ星