歴史の散歩道 -8ページ目

信長資料 細川幽斎  古今の伝授

慶長5年(1599)正月元旦 
諸大名は大坂城に行き本丸の豊臣秀頼に年賀を申し上げた。
又諸大名は西の丸にも行き徳川家康にも賀詞を述べた。
諸大名は秀頼と家康のいずれに礼を先にすべきかおおいに迷った。

正月25日 細川忠興はその子・光千代(第三子、のちの忠利)を江戸に送り、秀忠のもとに質に出した。

細川幽斎はこのわずらわしい世情を離れて、古今の世界に繭籠もろうとしていた。

細川幽斎は正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六王子の智仁(としひと)親王に古今伝授を思い立った。智仁親王は学問・文芸の志があり、以前より細川幽斎から連歌・和歌の指導を請けておられた。


幽斎はこの時69歳になっていたこともあり、家康からも智仁親王に幽斎も老年となったので早々伝授を受けるように言ってきた。

幽斎はこの問題にわざわざ家康を担ぎ出し文芸の世界に政治を持ち込み、徳川と豊臣両家の承認を取りつけて臨んだのである。

幽斎の深謀遠慮というべきであろう。 "

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細川幽斎  家康の御とぎ衆となる

慶長3年8月18日、太閤秀吉は62歳を以ってこの世を去った。その辞世は

 つゆとをち つゆときへにし わかみかな 
             なにわのことは ゆめのまたゆめ

慶長4年(1599)1月10日秀頼は亡父太閤の遺命によって伏見城より大坂城に移った。


その上で、榊原式部大輔と金森・有馬の両法印らに対して、幽斎・興元・松井康之三人の連判の10月20日付けの誓紙を差し出したので、逆心が無いことが明白に聞き届けられた。

慶長12年12月、家康は摂州表へ鷹狩に行き茨木の城に入った。
この時、幽斎と織田有楽斎などがお供をした。

もはや幽斎は織田有楽斎と共に家康の御とぎ衆として側侍し変わり身の早さを
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前田利家はお守役としてこれに従い、家康は伏見城に留まって五大老筆頭の地位を固めていた。
慶長4年3月3日前田利家が大坂の屋敷で病死する。62歳であった。

「細川家記」によれば
慶長4年10月、細川忠興が金沢の前田利長と通じて、家康に対し別心を抱いていると言う風説が拡がった。
家康は大坂にいた幽斎を呼び出して、その話は真実かと問いただした。

幽斎は「忠興においては少しも逆心は御座無く、御心安く思し召し召さる可し」と答えた。

信長資料  細川幽斎  秀吉の唐入り

天正19年(1591年)12月28日、秀次に関白宣下の儀式が宮中で執り行われ、秀吉はこれより太閤と称し、又聚楽第を秀次に譲った。

「島津家文書」によれば
この日、秀吉は島津義久と細川幽斎の連名宛に朱印状を送った。
それによれば、義久は浅野長政と共に渡海すること、新納忠元は妻子を京都へ差し出し、自らは義久の供をして渡海することなどを命令した。

細川幽斎と島津義久が連名となっているのは、秀吉が細川幽斎を薩摩に対する指令の窓口に任じている故である。
尚、この時期秀吉腹心の石田三成と並び、細川幽斎は島津家の政治的窓口となっており、天正13年に幽斎と共に島津氏に帰順を勧めた千利休の名はこの時すでにはずされていた。

天正20年(1592・12月8日、文禄と改元)秀吉は朝鮮出兵の命令を発し、細川幽斎はこれに応じて元日試筆の歌を詠んだ。

         日の本の 光をみせて 遥かなる 
                  もろこしまでも 春や立つらん

文禄2年1月5日  正親町上皇崩御せられた。
文禄2年8月3日  淀殿 大坂城二の丸で男子を生み「拾」と名づけられた。 
文禄4年7月8日  秀吉は秀次の官職を奪い、紀伊高野山に追放した上          15日に自殺させた。

細川幽斎は、この時期太閤の命で薩摩に下向していて洛中には不在であったため、秀次事件に連座することを免れる幸運に恵まれたのである。 "
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信長資料 細川幽斎  秀吉のおとぎ衆となる

「細川家記」によれば天正14年幽斎は4月、山城の国西岡で三千石を在洛料として秀吉から拝領したとある。


「千利休由緒書」によれば千利休は信長より御茶頭を仰せ付けられ三千石を給されたとある。

他の茶頭の今井宗久・津田宗及も三千石を与えられたようである。

その待遇は秀吉も踏襲した。


今、細川幽斎が秀吉より与えられた在洛料三千石は、茶頭三人と同格である。

細川幽斎はこの時より秀吉側侍の御とぎ衆として遇されたのであろう。


天正14年10月「細川家記」によれば徳川家康が秀吉と和睦後、初めて上洛してきたので、秀吉は大いに喜び饗応した。

その席に細川幽斎も相伴し、この時から幽斎と家康は殊に睦まじくなった。


秀吉はこのころ、奏請して豊臣の姓を与えられた。 " "

信長資料   秀吉の勃興

「細川家記」によれば
天正10年7月11日秀吉は藤孝父子に対して「自今以後、疎意有り間敷く」との誓紙を送ってきた



程なく織田信孝も尾張内海(愛知県知多郡)において秀吉を怨みつつ自刃した。 "

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天正10年10月秀吉は山崎宝積寺城にこもり、柴田勝家対策を練っていた。11月1日より4日まで柴田の使者前田・不破・金森らとこの城で会見した。

細川幽斎と千利休は、その前に妙喜庵(京都府乙訓郡大山崎町、千利休の二畳の茶室待庵がある)に来て秀吉の禁裏・諸大名・町対策の相談にのっていたのであろう。
まさに細川幽斎と千利休の抜け目の無い行動である。

天正11年(1583年)正月元日 幽斎の発句。齢は知命(50歳)に達したので、 一句。
  「道知ると いふばかりなる 今年かな」

正月8日、幽斎は安土に行き、三法師と秀吉に謁見した。
知命に達した幽斎は、武家としての行動は一切、忠興に任せたものとおもわれる。

天正11年4月24日、柴田勝家は越前北の庄城(福井市)でお市の方と共に自害して果てた。
これは「細川父子の義心を深く感じ入った故であろう。」と記されている。
秀吉は藤孝父子を自分の陣営に引き入れるべく率直に直談して付き合いたいと誓ったのである。

信長資料 細川幽斎  光秀の三日天下

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光秀は天正10年6月2日信長を討ち果たすと、その日のうちに備中高松城外で秀吉と対陣している毛利方の小早川隆景に密使を送った。密使は三日深更、高松に到着したが暗夜の為陣所を誤り秀吉の兵に捕らわれ密書が発見された。

秀吉は4日、毛利家の使僧安国寺を口説き高松城守・清水宗治を切腹開城させ毛利家に血判起請文を提出し和議を結び、急ぎ光秀討伐の為駆け上って行った。

細川幽斎父子の秀吉への帰服の意思は、秀吉股肱の臣・前野長康を通じてすばやく表明していた。

光秀の決起の本意は別のところにあったであろうが、細川幽斎父子を誘うに当たっては、領土の利を全面に打ち出していたものの細川幽斎父子は、その確実ではない将来の賭けには乗らなかったのである。

6月16日織田信孝ら諸勢は安土に下向した。光秀の首と胴体は本能寺にさらしたと言う。

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信長資料  細川藤孝  隠居して幽斎玄旨と号す

戦国の世を足利義昭、信長、秀吉、家康に仕え
しかも76歳の天寿を全うした細川(藤孝)幽斎とは如何なる人物であろうか。

★★★

「細川家記」は
本能寺の変において藤孝一家は光秀の謀反といかに無関係であったかを説明する。

天正10年6月3日 悲報を知らされた藤孝と忠興は仰天して愁傷甚だしかったが
ややあって藤孝は「我は信長公の御恩深く蒙りたれば、剃髪して多年の恩を謝すべし。
その方(忠興)事は光秀とは婿舅の間なれば、彼に与すべきや心に任せらるべし」と言った。
忠興も落涙して父に同意し共に剃髪した

藤孝父子にとって今度の光秀の挙は、少しも予測できなかった寝耳に水の出来事であると主張している。
藤孝父子は光秀に同心せず、いよいよ義心を励ました。

この時から藤孝は隠居して国を忠興に譲り剃髪して幽斎玄旨と号した。

程なく田辺(舞鶴市)を隠居城とし宮津を忠興の居城とした。
このとき藤孝49歳、忠興20歳。
忠興は妻の玉子が大逆人光秀の女であるとの故に山奥の味土野(竹野郡弥栄町)に幽閉した "

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信長資料   信長と「遠めがね」


ストセラーとなった「信長の柩」の作者である75歳の作家・加藤廣氏が
時代小説家のミスを指摘している。

時代小説家は望遠鏡を「遠めがね」と称して盛んに乱用する。
例えば
信長は、建設途上の安土城の高見から,遠めがねで、下で働く土工が、通りがかりの女をからかうのを見て、駆け降りて、一刀のもとに切り捨てた。
秀吉は、九州の名護屋城の上から、家康と一緒になって、遠めがねで朝鮮渡航の船団を見送った。

望遠鏡は、オランダの眼鏡士・リッペルスハイが、1608年、たまたま二つのレンズをもてあそんで、教会の風見鶏を眺めたことから(驚くほど近くに見えることを)発見した。
1608年は(関が原の戦い)の8年後である。

ちなみに、リッペルスハイは、すぐさまオランダ政府に特許を申請したが(新規性なし)として却下された。
しかし、是を伝え聞いたガリレオが、翌年1609年、自分で望遠鏡を制作し、最初は三倍、そして最期には二十倍くらいの望遠鏡を開発。
ついに月面や木星の四大衛星(ガリレオ衛星)の忠実な記録を残し、地動説を確立するに至ったのである。

そのような望遠鏡が、日本で(遠めがね)として16世紀の信長の時代に普及している等と書くのは噴飯ものである

こんな出鱈目を平気で書くから
「もう大分前から、実は私は歴史小説というものをほとんど受け付けなくなってしまった」などと作家の曽野綾子さんに書かれるのである。

信長資料  細川藤孝  本能寺の変

天正10年6月1日夜、
本能寺における茶事の席で信長自慢の 「セイタカ肩衝、ツクモ茄子」等の名物38種が豪華に披露された。
茶事が終わると公家・僧侶らは早々に退出した。
夜がふけて碁の対局を数番行い、信忠はそれを最後まで見て二条の妙覚寺に帰ったのは真夜中過ぎであった。

明くる天正10年6月2日に、信長は禁裏に伺候して中国進発の事を奏上する時に、天皇譲位を迫るとともに三職(太政大臣か関白か将軍)のうちいずれを望むかの返答をすると予想された。

おそらく信長は三職のいずれをも無視したであろう
たとえ、そのうちのいずれかに任命されても、直ちに信忠に譲与することを図った上で、自らは官職の束縛を離れて超然とした位置を求めたであろうと思われる。

天にニ日が登ることになろうと公家らは恐れた。
是は如何なる手段をもってしても阻止しなければならなかった。

亀山城にいた明智光秀は前日5月29日、信長が僅かの供廻りのみで本能寺に入った事を知り、信長に対して十二分の勝算の場が天から与えられた事を察知した。

そして運命の決行を決意したのである。

「信長公記」によれば
信長は討ち入った者が明智であると森蘭丸から聞くと「是非に及ばず」と覚悟した。
信長は弓をとり、ニ、三矢放ったが弦が切れると槍を以って戦った。
肘に傷を受けると殿中深く入り御納戸の口を閉じ腹を掻き切り火焔の中に没した。

信長資料  細川藤孝  本能寺の変前夜

「言継卿記」によれば
天正10年6月1日に本能寺の信長のもとに参じたのは、近衛前久・二条昭実・鷹司信房・飛鳥井雅教・西園寺実益ほか多数の公家及び僧侶・地下の者少々が参じて茶会があり「大慶大慶」であったと記してある。

しかし、「大慶大慶」ではなかった。
信長は公家らが持参した進物を全て返却し、先に申し入れた通り、朝廷は三島暦を採用し本年12月に閏(うるう)を入れることはどうなっているのかと問い質した。

陰陽頭・土御門久脩は信長の鋭い視線の中で返答に詰まった。
伝奏・勧修寺晴豊は「これ信長無理なる事と各申す事也」と書き残している。

さかのぼる4月25日伝奏・勧修寺晴豊は天皇の意向を体して信長に「太政大臣か関白か将軍」のいずれかに望み次第に推任することを伝えていた。

信長はこの返答を保留していた。


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