ここ、山形は地震から24時間後に電気がほぼ復旧しました。
隣県、宮城とは雲泥の差です。
当初から水も出て、大抵の家はプロパンなので煮炊きには困りませんでした。
ただ、昨今の暖房器具は電気がないと使えないものばかりで、たったひとつだけあった昔ながらの灯油ストーブで暖を取りました。

ラジオで主に山形県内の情報を聞きながら、気仙沼で火事が発生と言う言葉を遠くで感じていました。
多分、リアルタイムでこの湾内全域に広がりそうな映像を見ていたら正気ではいられなかったでしょう。
連絡の取れない、火事からそう遠くない場所に居るはずの両親妹はちゃんと火事から逃げたのだろうか?
どこまで燃えたの?誰の家が?津波はどこまで?
ラジオからは伝わっていなかった映像は、一両日たってはじめて目にした時、魂が体の後ろに引っ張られ体から離れそうでした。この世の物とは思えない信じられない地獄絵図でした。
うちの父母妹は、この地獄絵図を湾を見おろす保育園の園庭から一晩中見ていたのです。
勿論、まだ今回の地震の時の話は詳しく聞いてませんが、容易に想像できます。
それでも、気仙沼に留まり建てなおしたいと思っているのですが。

ここからは私の勝手な想像です。凄惨な光景を文章にしたので読みたくない人はここまでで。
































春に近いとは言え、夜、まだまだ冬の風の吹く寒い高台の園庭で、ただ黙って立って炎を見る。
生臭い油と焦げ臭い匂いと、湾の海面を覆う油の幕が燃え立つ赤い光、爆発音、助けを求める声、悲鳴、呻き。湾内を炎を拭きあげながらくるくると廻る船、船。いつまでもいつまで、夜なのに空は赤く赤く染まって湾は地獄の釜の中の様な有様だったんだと。微風ではありながら、風は始終鹿折の方へ向かって吹いていた。油の薄膜も炎を伴って水面を鹿折の方へ滑っていく。炎を揚げた薄膜はそのまま鹿折川を遡上して行く。炎の卵を撒き散らしながら。津波で壊滅的なダメージを負った町並みに炎がドンドンその手を広げていく。高台で見てるだけの人は、あの中に誰も居ませんように。逃げおおせてますように。必死に無言で願っても耳には何かそう思いたくない音が入ってくる。多分この時点で現実から意識が乖離してくるだろう。そうじゃなければ、明日への希望や立ち上がるための力を保持する事が出来なくなってしまう。
そんな状況を過ごしたんじゃないかと。
鹿折は怖くて見てません。TVで見た実家の倉庫があったはずの場所も焼け崩れた瓦礫があるだけ。
放送で見た時は、そこが鹿折駅だとは信じられない、本当にまともな建物一つ残って居ない。
まとめて2,3の町単位で家屋が消失している。
どこが何だったか、ほんとにわからない。線路があるからきっとこの辺だろうという。
どの写真を見ても、焼け焦げた瓦礫瓦礫瓦礫。生きてる人間の気配すらない。
私が知っている鹿折の風景は、焼け崩れてしまった。




あおいのオフィシャル ブログ-魚町八日町
魚町と八日町の境にある交差点です。海から200mほどの所ですが、今回の津波で木造住宅は根こそぎ破壊されています。


あおいのオフィシャル ブログ-浮見堂

上記の写真 左に写っている浮見堂の在りし日の姿がリンク先に。
右側に写ってる船は後ろ半分が焦げて、鉄骨のみ。
地震が襲い、津波が襲ってきた後には火災が気仙沼を襲いました。
高台から見下ろした湾内は、火がついた遠洋漁船がぐるぐる炎の尾を引いて廻ったそうです。
今回ガソリンと時間の関係で鹿折には行って来ませんでしたが、風向きがずっと鹿折方向に吹いていた為、海から2kmのあたりまで焼け野原だそうです。ずーっと実家で働いててくれた親戚のおんちゃんはこの鹿折に家があり今でも行方不明です。


実家の左一軒置いた所に、車庫と倉庫がありましたがもくだ(ゴミ)と化して何もありませんでした。
左側は7軒ほど木造家屋がありましたが、殆どなにも残っていません。

あおいのオフィシャル ブログ-家正面
うちの実家の前には、どこの家のものかわからない建材が残され、街頭がぽっきりと倒れています。これを、どけるにも人間の手だけではかなりかかるでしょう。

あおいのオフィシャル ブログ-家脇廃材
平地に戻った車庫倉庫の置くにもやはり波で押しつぶされた家の廃材がうずたかく山になって居ます。

あおいのオフィシャル ブログ-家中自販機
左脇に空いた穴から撮影しました。入り口付近にあった自動販売機が店の奥へ流されました。奥には3畳ほどの冷蔵庫があったのですが、色々なものが波で一挙に奥まで運ばれたようでどうなってるか分かりません。

あおいのオフィシャル ブログ-家中階段
階段は無事でしたが泥だらけですべりそうでした。2階は、やっぱり波が入ってきて人が入れる状態では。。。3階では仏壇の上半分が下半分から1mほど先に落ちていました。結構大きくて重い仏壇なんですが。


今日、mixiでカシコさんから頂いた実家の写真です。
倉元と言う看板がちゃんと残ってます。
凄いですね。まさか、こんなにちゃんと残ってるなんて、驚きです。私は人が悪いので、どうせ潰すんだったら壊れてた方があきらめつくのになあと。


あ。真横から撮ったのもありました。
脇の5、6軒の家が潰され流されてしまったので、丸見えです。
横っ腹に穴が!
これのおかげで水が逃げて壊れなかったのかも。
でも、盗難が酷いことになっているそうだから、この穴から侵入されて盗まれたかな?

この、二枚のほかにも、気仙沼の現状がわかる写真を多数アップされてました。
見たい方は探してみて下さい。
ただ、多分土地勘がないひとはそれなりのショックですが、ある人にはかなりのショックだと思います。
見慣れた自分の原風景とマッチングしようと思った時、そこはただの瓦礫の山、踏み分けてはいることすら
不可能な廃材の山、山、もしくは泥が堆積した荒野に死んだサンマがボロ、ぼろっと落ちている。
大川の水の中に沈んだ車。
湾の真ん中でひっくりかえって赤い船底を晒してる遠洋漁業船の脇に、片側だけ真っ黒に煤けた船。

誰が置いたのか、木彫りの観音様が廃材の山の手前に。
そこには流れてきただろう持ち主不明のアルバムとお花、遠景に広がる何もなかったような淡い光で穏やかな顔をする海。

なんてことでしょう。
何ででしょう。
わからないです。
なぜこんな事が起きたのか。




Android携帯からの投稿
今回の東北大地震で実家のある気仙沼が震災にあい、言葉に表せないほどの傷を負いました。
勿論、日々のニュースで流れていく情報の中に、いくどとなく繰り返し出現する風景ですが、今一度、私の言葉で誰かの目に触れ、身近に感じて貰えればと思い書いています。
私自身は山形に居て、被害もそれほど無く、まだ被災地へも行けずにここに座って居ます。
写真やTVで見ているだけです。でも、出来る事はなんだろう?と考えてこのブログを書いています。
正直に書きます。
この写真は、なるべく自分の実に近い所でお話が出来ればと、勝手に都合のいい写真を使用させて貰ってます。色々震災の写真を見ていると、吐き気がしてきて、頭が朦朧としてきます。でも、手は止まらないのです。苦しいです。でも、書きます。

地震当日から安否確認できるまでの話
その日私は普通に山形で仕事をしていました。
2時46分:山形でも震度6という、生まれて初めてに近い(三陸沖は体験してるので)揺れに、まず自分達の安全を確保する為に20分くらいわたわたしてました。
3時25分:山形の方でほっとしたところで父母妹達に安否確認のメールを出しました。
4時49分:気仙沼からは「大丈夫」だけのメール この時には津波が来てました。
4時52分:宮城県亘理郡山元町の妹から「わたしは職場(学校)から出られません。津波の中です。」
6時14分:宮城県利府の妹から「うちはぐちゃぐちゃだけど、みんなぶじ」

この後、殆どどことも連絡とれずに、緊急地震速報におびえ、火の気のない部屋で洋服を着て防寒着、持ち出し物を枕元に置きまんじりともせずに一晩を過ごしました。

3/12 11時12分:利府の妹とはすぐに連絡(メールだけです。通話は不能)
これ以降は、なにをどうしたらよいのか、もうお手上げ。
3/14 真夜中1時16分:仙台の親戚からメールが。気仙沼の父母妹は無事避難していると。
3/14 朝5時12分:山元町の妹から一家全員自宅に居ると。

ただこうやって安否確認が出来ても、気仙沼の父は透析患者、透析が出来ないと命に関わるのに嫌なニュースばかりが耳に入る。無事と聞いた後も本人達から直接連絡も無い。B型家族だからしょうがない、とやや諦め気味だけど迎えにも行けず無力感に。

3/16 11時21分:やっと気仙沼の妹から直接電話。透析も受けられてるし知り合いの家で暖かく過ごして居ますとの事。

まだまだ、インフラは整わず、ガソリンも満足に買えない状態。
無理して行く事はないだろうと、今は思ってます。
助けてくださった方ありがとう。
助け合って生きている方々、素晴らしいです。
まだまだ大変ですが、生きてる方がいいに決まってます。

Google Earthにて
気仙沼市南町・魚町

気仙沼湾の一番とっつきに当たる所です。気仙沼湾は歪んだひょうたんのような形をしています。
あおいのオフィシャル ブログ-GoogleL

現在の写真です。気仙沼のフェリー発着所があった所です。

Google Earthにて
上記写真拡大の多分実家だと思われるところ

あおいのオフィシャル ブログ

うちは、間口の狭い鉄筋コンクリートの3階建ての建物で少しくの字に曲がってます。
右側の角から4軒目。裏には亀山精肉屋の3階建てと鈴木歯科医院の3階建ての建物があります。

気仙沼市魚町 湾に面した所
実家は丁度この写真の右側で切れてます。
あおいのオフィシャル ブログ

見慣れた近所の建物が軒並み流されてます。
どこに誰が住んでいたか、昔からの狭い町なのであそこには誰が、ここにはあの方がとすぐに顔が思い浮かびます。どんな思いをしてみなさんいらっしゃるかと思うと・・・。

津波前と津波後の比較
あおいのオフィシャル ブログ

津波の後は湾に面した木造建築は殆ど流された。比較的新しい鉄筋コンクリートの建物は残っているけど、中がどうなっているかは不明。いくら残ってるからとは言え、強度も中の壊れ具合も分からないので、もうこわすしかないのでしょうね。

魚町2,3町目辺りの写真
津波後
あおいのオフィシャル ブログ-sakana3now

津波前
あおいのオフィシャル ブログ-sakana3old

津波前の奥から2軒目の家の前あたりに大きなタンクが転がってます。
ここは湾に面した道路から一本奥の旧45号線です。
面していなかった、角度が丁度ひょうたんのくびれの内側だったので、大分建物が残ってます。

今回、自分の父母妹の安否がしばらく確認できず、すぐ近く(4軒隣)の叔父叔母の娘を含め、父母の兄弟全員で情報を集めました。そのうち同じ町内のあそこの方は無事でここに居るとか、みんなここに走って逃げたとか言う情報が集まるにつれ、昔から気仙沼の海のそばで暮らしてる方は、海の恩恵を沢山受けてるがゆえに、怖さも人一倍理解していて、すぐに津波から逃れるべく避難を開始したのが耳に。そして。今の所知人に死亡者が居ないのが救いです。
もう少しすると、そう言う情報が入ってくるかもしれませんが、そうなって何も出来なくならないうちに書いてしまいます。
別に自分が体験したわけではないのですが、津波に破壊しつくされた故郷の事を忘れない為にも。



今日はうちの事務所で、Twitter女子会したよ♪

内輪だから、みんなで6人ほどだったけど楽しかったです。
全然繋がりがなかった人が年齢職業バラバラで、でも、twitterと言う場で知り合って
こうやって楽しい時間を共有している。

いやあ、頑張ってこれからもやって行こうと思えます。

今度はみんなで美味しいものを食べに行きたいね。