父は早くに公務員(裁判所の書記官)だった祖父を亡くし、祖母、姉、妹の4人で北陸の田舎を離れ四国へと祖母の友人を頼りに移り住む事になった。

中学を卒業と同時に海運会社に就職し、幸運にも外国航路の貨物船機関員として船乗りの第一歩を踏み出した。

朝鮮動乱にも米軍徴用船として一発手当を期待し参加したらしい。

一発手当とは機雷に触れてドカ〜ンか、潜水艦からの魚雷を喰らうかの何れかで今の貨幣価値からすると建売住宅が一軒買える?ほどらしい。二十歳そこそこの若者には過分過ぎる程の手当であったはずだ。

しかし一発も命中することなく五体満足に船乗りを続けた。

同じ船にある若者がコック見習いとして乗り込んで来る。この若者が後に私の叔父になるとはこの時には父も想像できなかったであろう。

母は、明治時代から選挙権を得ていた浪花の小商売人の家系に産まれる。

3代続いた商売も祖父の代で番頭さんに持ち逃げされおんぶ日傘のボンボンだった祖父は一文無しになってしまうが根っからの楽天的な性格で働く事もせず、今思えばどうやってご飯を食べていたのであろうか、不思議でならない。

曾祖父、高祖父と多額納税者で背中一面に彫り物を背負い肩で風を切ったかどうかは定かで無いが、家には女中奉公の女子衆が数多く居たのも事実であった。

異母姉妹弟を含め8人の戸籍上は次女になる母であったが、祖父の最初の奥様は伯母(母の姉)である1子を産むと直ぐに他界し祖父は再婚の為に伯母を遠縁に家付き娘として預け再婚し1男6女を授かり事実上母が長女の様な立場で育つ。

この時の伯母に持たせた一戸建ての屋敷は現在、大阪府藤井寺市の1等地、四天王寺学園小学校辺りにひと際目大きな建物だったと聞いている。

やはり、じっさまは馬鹿だったのか(笑)