最近分かってきた自分のことが、
辛いけど話します。自分は今ニートです。そして大学も中退しました。
大学に入ってずっと単位をとり続けてのに4年生になってゼミがあって、ゼミと卒業研究その二つだけなぜか単位がとれなかった。
体が動かなかった。やろうとしてもできなかった。
躓きのきっかけは、ゼミの自己紹介僕は何も話すことがなかった。だから必死になってスターウォーズをep9まで全巻視聴し、それをパワポで解説しようと試みた。しかし自己紹介が自分の番になって僕は逃げた。なぜなら
パワポが完成していなかった...。
正直な話をすれば、話すことはあったのだ。僕はモンストが好きだった。暇さえあれば一日中やった。モンスト掲示板で質問コーナーでレスバをしたり、モンストのイラストコーナーで風神雷神の絵も描いていた。
さらには運極も100体以上は作ったし、一週目の轟絶も運極にするほど。多分そんなことを言えばよかったのかもしれない。
でも恥ずかしかったし、何より自分を知られるのが、怖かった。
ゼミから逃げた翌翌翌週何も持たずもう一度ゼミに出た。今思えば図太い神経をしてるなぁと思う
そこではすでに自己紹介を終え、先輩たちの卒業研究を彼らなりにパワポにまとめてる同級生の姿があった。
そしてもう一度チャンスを与えられた。「次週、卒業研究をまとめてこい」
......
......
ゼミの帰り際に、同級生から声をかけられた。「絶対パワポ持ってきて、約束だよ!」
僕はうんと言った。
心の中では「一週間でできるわけがない、自己紹介もまとめられないのに。。。」
その日の夕方は希望とともに、胸が痛かった。。。
きっと今なら言えるだろう、僕一人じゃできないから助けてほしいと、
その日から僕が大学に足を運ぶことはなかった。
親のお金、同級生との約束、自分に嘘をつく。
悪夢だった。何も見たくないし、何も聞きたくない。
僕は留年をした。
新しい気持ちで、頑張ろうとしたのに、だけど、だけど、
一回目のゼミの授業に参加できなかった。
酷く精神が汚れていて、最初の授業なんてどうでもよかったのかもしれない
もしくは、先生と顔を合わせるのが怖かった。
4回目の授業でやっと参加したが、その時はコロナの影響でオンラインだった。名前は表示されるが、顔出しはできなかった。
そしてそこには、同級生だった子が、大学院生として先輩として指導していた。
かつて僕と約束をしてくれた子だった。
彼をA君とするならば、A君はあの日と違って、厳しく先輩としての威厳すら感じた。
僕はA君に対しても怖くなっていった。
きっと精神が疲弊しきって何もかも怖く感じていたのかもしれない。
先生とのメールはしていたが、うまく課題をこなすことができず、9月以降音信不通のまま、12月頃退学した。
とんだ親不孝者だ。生きてる価値が自分に感じられなかった。
9月以降は若者サポートステーションへ通っていたが、自分に合った仕事は見つからず、半年ほど停滞していた。
このままではだめだと思い、ポリテクセンターへ通い始めるが、どの仕事も魅力的に感じなかった。一度も面接をすることなく退所し、今に至る。
仕事すら怖かった。仕事には人とのコミュニケーションがつきまとう。自信なんてなかったし、ただ仕事をして両親を
安心させたいと思いでポリテクに通っていた。
でも、実際の仕事はそんな思いだけで務まるわけではなかった。
あれからいくつものアルバイトで応募し面接してきたが、全部落ちた。
みるに堪えないまるで5歳児を相手にしてるかのように、面接官には見えただろう。
僕は無気力だった。ゲームして寝るだけの毎日。
そんなこんなで過ごしていたら家庭環境は経済的に厳しくなるばかり。
僕は避けてきた父親に「自分のことは好きか嫌いか?」と聞いた
そう意を決心するようになったのは、父親の自分への暴言や愚痴にたえられなくなったからだ。
父親の返答は言わずもがな「好きだよ」だが、その後のうっぷん話は少しつづいた。
そして、僕は初めて父親と心で会話で来たような気がする。
思えば中学生以降ずっと自分を偽ってきた。
中学生の頃、一緒に体操部に入ろうと約束していた、友人の大ちゃんがいたのだ。
だけど、もっと仲の良い親友Oがいた。
そのO君が、テニス部に入るから誘われて入ることになったけど、僕の心には淀みが残った。
大ちゃんに対して、「ごめんね体操部に入れなくて。」
この一言をずっと言いたかったのに、クラスも違うし言えなかった。
正確には勇気が出なっかった。
そんな淀みを抱えたまま、中学校の入学初期の頃、自分は積極的にクラスメイトと交流できなかった。
どんどん喋るきっかけをなくしていき、いつしか声が出なくなった。
恐らく場面緘黙症とやらの症状だろう。
そしてなぜか部活では、元気に話し、クラスでは一言もしゃべらないちぐはぐな人間が生まれた。
部活では、親友O君がいたから今までどうり喋れたけど、クラス内では誰とも交流しない
そんなジレンマに僕自身悩んだし、訳が分からなっかった。
今は冷静に振り返ることが出来ているけど、当時は苦しんだ。
高校では、中学校の、顔見知りがいないとこに進んだ。
そんなに勉強は好きではなかったけど、中三で塾にはいり、巻き返した。
高校では、場面緘黙症や人見知りMAXだったけど。
自分を変えたい一身で、勇気を出してクラスメイトに話しかけた。
その最初の子が、高校三年間のずっとの友達になった。
相変わらず、僕の口下手は治らないが、場面緘黙症は少し治っていた。
そして、その子に一緒に卓球部に入らないか?と誘われたけど、お金がかかると思い親に負担させたくなくて無駄な気遣いを働いてしまい。部活には入らなかった。
ほんとは入りたかったけど、素直になれなかった。
高校1年の運動会、じゃんけんでリレーの選手になった。他にも障害物競走はあったが、じゃんけんで決まったのでしょうがないと思いなくなく承諾した。
しかし、悲劇の始まりである。
なんと足が遅いではないか、ほかの選手と比べてグランド1週弱の差がついていた。あの時断っておけば…
これほど後悔したことない。
その後、自分は気分が優れなかった。きっとみんなに批判されると、そう怖くなって
あえて運動会の真夏日に水筒を飲まなかった。
自傷オナニーと言われればそれまでだが、案の定熱中症になり、
視界が真っ白になった。白黒の視界から保健委員の子が救出し、一命をとりとめた。
昼の昼食、リレーのことは忘れみんなが心配してくれた。
熱中症の件がなければみんなが責めていただろう。それを受けいられる勇気があれば、自傷オナニーなんてせずに
みんなともっと仲良くなれただろうか…
高校二年生になって、もうすぐで卒業。
帰宅部の僕は、内申点はそこそこなので、頑張ったエピソードが欲しかった。
そこで文化祭実行委員に手を挙げた。
その行動は素晴らしいが、多くの人からみて無謀だった。
なぜなら、コミュ障で人見知り、大きな声も出ないし、何もいい所がない。
もう一人の女子が渋々実行委員会に名乗りを上げてくれたが、僕と彼女の間柄は最悪だった。
初対面同士だし、何よりコミュニケーションがあったもんじゃない。
向こうも何か不機嫌だし、僕からの歩み寄りも少ない。
だけどもう一人の功労者のおかげで、僕は無能というレッテルを張られたまま
なんとか文化祭を迎えることができた。
カップ麺の催しに決まったが、これは僕の案。
というと凄そうに聞こえるが、ほかの組は、サーティワンだったりタピオカだったりどんどん決まって
実質的に選択肢が狭まっていた。
司会者の進行力不足である。現実な建設をした結果がカップ麺という訳だ。
文化祭が終わり彼女からの飛び切りの笑顔僕に向けられた。
その一瞬だけは仲良くなれた気がする。
高3に受験勉強は全く皆無の僕はAO入試で、内申点と文化祭のエピソードを盾に大学に入った。
大学選びは簡単だった。
僕の親友Oがそこに行きたいと、言ったからだ。
実際にはOと一緒の道に進むことはなかった。
大学入学の理由はO君がいれば、また昔みたいに活動的な自分になれると思った。
だけどそれは、僕の進みたい道じゃない。
また自分の心に偽っってしまった。
そして、大学では単位は取るが学業と就活は捗らなかった。
今までは、受け身の姿勢で何とかなったけれど、4年生からは主体的な姿勢が求められる。
大きな壁にぶつかってしまった。
この症状は「スチューデントアパシー」と呼ばれるものと酷似している
マンモス大学の子に多く見られるが、高校までは受け身でいられたけど、大学では学業が厳かになり趣味やバイトを優先してしまう。本人は今までうまく行ってきたから危機感はないが、最悪の場合留年しても危機感がない。
まさに私のことだろう。
みんなに言いたいことはひとつ。
自分の心に正直になること。
人に見せたくない部分も弱い部分も、あるかもしれないけど、人とのコミュニケーションは言葉じゃない。
心でするもの。心で話せば自然と言葉が出るってこと。
そんなことが分かってきたし、これからも理解していきたい。
自分の戒めとして、書きました。