どうも、ブネてす。
今回は
明智光秀の視点で
本能寺の変から山崎の戦いを
書きたく存じます。
「明智光秀と山崎の戦い」
天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、明智光秀は京都の本能寺に宿泊している織田信長を襲った。織田信長は弓の弦が切れるまで矢を放って戦ったが、鉄砲傷を受けて自分の最期を悟り、本能寺本殿に自ら火を放って焼死した。
「かんらからからっ。もはや、御屋形様は助かるまい。次は二条城に泊まっている若様を襲うぞ」
明智光秀は織田信長の嫡男である信忠を襲うと軍勢に宣言した。
その宣言通り、織田信忠も二条城を包囲されて追い詰められ、二条城本殿に火をかけて焼死した。
明智光秀はいい気分になった。
「やったぞ。これで京都は某の手中に収めたも同然だ」
6月9日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍勢が強行軍を行い、中国地方から京都へ戻ってくるという情報が坂本城にいる明智光秀の元に飛び込んできた。すると、まず、明智光秀は直ちに側近の1人である松田政近に命令した。
「筒井順慶殿に味方になるように呼びかけよ」
「筒井殿に、ですか!?」
「そうだ。筒井殿には野戦に滅法強い猛将である島左近殿がついているからだ」
「ハハーッ」
次に、明智光秀は坂本城から勝竜寺城へ移動した。そして、彼自身は勝竜寺城で兵を集合させることにした。
6月12日午前中にて、羽柴秀吉は天王山麓を陣地とした。この時、織田信長の三男である神戸信孝の軍勢が合流してきており、羽柴秀吉軍は35,000の大軍に膨れ上がっていた。
一方、光秀のいる勝竜寺城には多く見積もっても14,500と羽柴秀吉軍の半分の戦力しか集まっていなかった。光秀本人は筒井順慶からの手紙を読み、味方になるように呼びかけたことに応じなかったことに対して苛立った。
「筒井順慶殿も島左近殿も、某に力をかさぬと仰るか」
そんな光秀に対して松田政近は言った。
「御屋形様、お気を確かにしてください。ハゲネズミ軍は無理な行軍で疲れている筈です。そこへ、この松田政近が先制攻撃部隊を率いましょう。そうすれば、兵達の士気も高まる筈です」
「そうか、そうせい」
「では、勝竜寺城を出ましょう」
「そうだな」
明智光秀は勝竜寺城付近の古墳の上に本陣を置いた。先制攻撃をするつもりでいる松田政近が率いる部隊2,000は円光寺川の南側に陣を置いた。津田信春が率いる部隊2,000は淀川沿いの東側に陣を置いた。
こうして、羽柴秀吉と明智光秀は円光寺川を挟むような形で山崎の地で対峙した。両者の着陣により、6月12日は終わった。
6月13日、午前中から大雨が音を立てて降り注いだ。
申の正刻(16:00)、明智光秀はこれ以上、睨み合いを長引かせると更なる秀吉勢の戦力増加につながると考えて、短期決戦を望んだ。彼は伝令にこう伝えた。
「松田政近にこう伝えろ。『今こそ、中川清秀隊に横から攻撃を仕掛けよ』と」
伝令は松田政近の陣へ向かった。
松田政近は2,000の兵に対して叫んだ。
「進撃開始! あのハゲネズミにこちらが士気で勝るところを見せてやれ!!」
松田政近の部隊は円光寺川を渡り、中川清秀勢に横側から攻撃を仕掛けた。中川清秀の兵達は横側から攻撃されたことにより混乱した。松田政近の配下の槍隊は中川清秀の兵達を叩きのめした。中川清秀は大雨で火縄銃が使い物にならない中、迎撃態勢が整わないという状況で兵達が攻撃されたと聞き、唸り声を上げた。
羽柴秀吉の家来の1人である黒田官兵衛の陣から無数の法螺貝が鳴らされた。そして、中川清秀の部隊に黒田官兵衛の部隊が加勢した。これにより、羽柴軍が動き出した。黒田官兵衛をはじめとする羽柴秀吉の家来達の部隊が中川清秀の部隊に加勢し、松田政近隊達の攻撃部隊をどんどん押し返していった。
一方、神戸信孝の部隊は津田信春らの防御部隊を攻撃した。
「弓矢の餌食にしてしまえ!!」
津田信春は我が部隊にこう指示した。津田信春隊は弓矢が得意な兵達ばかりで構成されていた。神戸信孝隊に矢の雨がひっきりなしに降り注いだ。しかし、多勢に無勢、津田信春達の防御部隊に属する兵達は次々に倒されていった。
津田信春は自らも戦うと言った。
「小姓たちよ! 弓と矢を持て! 某も出るぞ!」
津田信春は小姓達から次々と渡される矢を放った。
しかし、津田信春ら防御部隊は抵抗もむなしく全滅してしまった。
こうして、夜の帳が下りる前に羽柴秀吉軍と明智光秀軍の円光寺川を挟んだ山崎の地での戦いは決着がついた。明智光秀は戦いに負け、1,000の手勢を連れて、勝竜寺城へ撤退してしまった。松田政近ら明智勢攻撃部隊は散り散りになってしまった。それにより、羽柴秀吉は戦いに勝利したのである。
夜になって、羽柴秀吉軍は勝竜寺城を包囲すると、全員、眠ってしまった。
6月14日の丑の正刻(2:00)、明智光秀は勝竜寺城を脱出した。何故なら、勝竜寺城は籠城戦に向かない城だからである。光秀が目指した先は、我が居城の坂本城である。彼は坂本城で再起を図っていた。ところが、小栗栖に到達した際に名もなき野武士の団体に襲われた。明智光秀は抵抗できず首を取られてしまった。
どっとはらい
いかがでしょうか?
では、皆様、ご機嫌よう。
参考文献
『戦国軍配者・島左近』
著者:山元泰生(小学館スクウェア)
2001年7月25日初版第二刷 発行
『某には策があり申す 島左近の野望』
著者:谷津矢車(株式会社 角川春樹事務所)
2019年5月18日 第一刷発行
『最新研究でここまでわかった 戦国時代通説のウソ』
編者:日本史の謎検証委員会(株式会社 彩図社)
2018年12月19日第1刷発行
『加藤嘉明と松山城』
著者:日下部正盛(愛媛新聞サービスセンター)
2010年9月12日初版第一刷発行
2010年12月19日第二版第一刷発行
『PHP文庫 加藤嘉明 「賤ヶ岳七本槍」の知られざる武勇』
著者:近衛龍春(株式会社PHP研究所)
2017年5月12日第一版第一刷発行
『樓岸夢一定ーー蜂須賀小六』
著者:佐藤雅美(実業之日本社)
1998年2月25日初版第一刷発行
『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』
著者:楠戸義昭(毎日新聞社)
2002年3月30日発行
『本能寺の変と千利休』
著者:宮林幸雄(株式会社文芸社)
2001年3月15日初版第一版発行
『小銃拳銃機関銃入門』
著者:佐山二郎(株式会社光人社)
2000年9月13日発行
『戦国最強の兵器図鑑 火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』
著者:桐野作人(株式会社新人物往来社)
2010年6月24日第1刷発行
『PHP文庫 織田信忠「本能寺の変」に散った信長の嫡男』
著者:近衛龍春(PHP研究所)
2004年2月18日第1版第1刷発行
以上