ルビー・ギリスの死 | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

前回、触れたように、実家の片付けのなかで、僕は母の未完成の刺繍を見つけ、そこからモンゴメリの小説の一シーンを思い出したわけなのだけれど、あ、そういえばその本もまだ、この家のどこかにあるに違いないと思って探したら、ほら、やっぱりあった。

 

蒸し暑いなかでの片付けは、長時間は続かない。

休憩がてら、すこし読んでみようか。

ま、こんなことをしてしまうから、なかなか作業がはかどらないわけなんだけどね。

 

ずっと、この小説の、ここらあたりのエピソードを語る数章に、僕はどこか違和感を覚えていたのだ。

あの頃は、それがいったい何なのかはっきりとしなかったのだけれど、今、読み返してみて、ふと思い当たった。

 

ギルバートはアンの魅力をこんなふうに考えている。

 

アンの最大の魅力は、アンがほかのアヴォンリーの娘たちのように、ちょっとしたことにもやきもちをやいたり、見せかけの嘘をついたり、敵対意識をはたらかせたり、機嫌とりをするような、くだらぬ真似をしないことにあった。(村岡花子 訳)

 

うん、たしかに僕もそう思う。

だが、そんなアンは友達のひとりであるルビーに対しては、いささか辛辣だ。

 

もちろんルビーのほうもアンと出会った当初は、そう、あの石盤事件のあとで罰としてギルバートの隣に座るよう命じられたアンの顔を見て

 

「ほんとにあんなのって見たことがないわ-真っ青で、その中に赤い小さな点がぽつぽつうかんでるのよ」

 

などと言うのだが、これは意地悪というよりも、むしろ自身の言葉がどれだけ人を傷つける可能性があるのかまでに考えが至らない、いってみれば鈍感というか単純というか、空気の読めない少女といった印象が強い。

実際、こういう人は僕の身近にも結構いたりするのだ。

ただ、女子高出身の友人に言わせると「鈍感なわけじゃないよ。こういうとき、たいていの女の子はわかっているのに気が付かないふりをして、わざとやってるの。ほとんどの男子はそれに騙されちゃうけど(呆)」ということらしいが。

 

アンは腹心の友であるダイアナに、こんなふうに言う。

 

「あたし、こんなことを言うのは、いやだけれど…でも…今のところ、あんまりルビーを好きじゃないの。一緒にここの学校やクイーンに行った頃は好きだったけれど…好きといってもあんたやジェーンほどじゃないけれどね。でも、この一年というもの、ルビーはすっかりなんて言ったらいいのかしら、変わってしまったようだわ」

「そうなのよ。リンドの小母さんも言ってなすったけど、ギリス家の娘はそうだ。話すことと言えば、男の子がどうしたの、だれが自分に夢中になってるの、ってことばかりだって。」

 

そうなのだ。

ルビーは美しく、小学生の頃から身近で姉たちが男性に取り囲まれてちやほやされるのを見て、自分も大きくなったら恋人をたくさん作ってさんざん愉快な思いをする、と友人たちに話すような少女だった。

 

だが、後にルビーと同じく、恋愛ごっこを楽しんでいるかのように見える女性と出会ったときには、アンはこんなふうに言う。

 

「あたし、好きだわ。…」

「あたしも好きよ」プリシラはきっぱり言った。「ルビー・ギリスに負けないくらい男の子たちのことを話すけれど、あたし、ルビーの言うことを聞いているといつも腹が立ったり、胸がむかむかしたりするのに、フィルの場合にはただ気持ちよく笑いたくなっただけですものね。さあ、いったい、これはなんとしたわけかしら?」

「そこに違いがあるのよ」と、アンは瞑想にふけるかのように言った。「ルビーのほうは実際、男の子のことを頭においているせいだと思うのよ。恋愛をもてあそんで、恋愛ごっこをしているのよ。それにルビーが自分の崇拝者たちを吹聴する時には、こちらがその半分も持っていないのを、当てこするためのように聞こえるわね。それがフィルが崇拝者のことを話しているのは、まるで自分の親友の話をしているように聞こえるでしょう。ほんとうに男の子をいい仲間にしているのよ」

 

なるほど。

小学校の頃からの友人ではあっても、アンが日頃から、ルビーに対してあまりいい感情を抱いていないことはよくわかる。

最初に触れた、ギルバートの考える「アンの魅力」を考え合わせると、すこし「?」な感じもするのだけれど。

そして件のエピソードである。

 

夏休みに帰省したアンは、教会でルビーの姿を目にして落胆し、驚愕する。

以前にもまして美しいが、その美しさはあまりにも病的なのだ。

尋ねるアンにリンドの小母さんはルビーが奔馬性肺結核で死にかかっていること、でも当人とその家族はそれを認めようとしないことを話す。

やがてアンはルビーに請われ、その夏の大半をルビーとともに過ごすことになる。

 

ある夜、ルビーはついに自分が死ぬことを認め、そのことに対する恐怖を口にする。

天国に行くことは怖くない。自分は教会員だし、天国へ行けることは確かだろう。

だが、ホームシックになるに違いない。そこは私が今まで慣れ親しんできたところではないのだから。

そしてアンは(冷静に)考える。

 

それは悲しい-悲劇的な-事実であった!天国はルビーが馴れしたしんで来たものではあり得ない。ルビーの今までの陽気な、愚かしい生活、浅はかな目標や希望などの中には、この大きな変化に適応できるものは一つもない。来世などということは彼女とは何のつながりもない、非現実的な、厭わしいものでしかあり得なかった。

 

掛川恭子さんの翻訳だと、もっとわかりやすいだろうか。

 

天国は、ルビーが暮らしてきたところと同じであるわけがなかった。これまで陽気にうかれ暮らしてきたルビー、たいしたことも考えず、高い望みを抱くこともなかったルビーは、その大きな変化についていけるだけのものを持っていないのだ。ルビーにとっては、つぎに訪れる世界は、今の世界とはまったくちがう、信じることのできない、つまらないところとしか映らないのだ。

 

そしてアンは苦痛を覚えながらこう思う。

 

ルビーの言ったことはすべて恐ろしいほど真実だった。ルビーは貴重に思うものをすべて残して行くのだ。宝をこの地上にのみたくわえ、人生のとるに足らぬ-うつり行くもののみのために生きてきたのだ。(村岡花子 訳)

 

ルビーのいったことはすべてが、恐ろしいほど本当だった。ルビーは愛しているものをすべて残していくのだ。ルビーが宝としているものは、地上にだけしかないのだ。ルビーはこの世のとるに足りないもの-うつろいゆくもの-だけを求めて生きてきて、永遠に存在しつづける偉大なものに、目をむけようとしなかった。(掛川恭子 訳)

 

う~ん、死にゆく友人を目の前にして、いささか厳しすぎるように思える。

作者のモンゴメリは、それこそ過酷な人生を歩んできた人ではある。

おそらく彼女は文章と向き合う時のみ、本当の自分でいることができたのだろう。

そしてこれはモンゴメリが日頃から感じ、信じてきたことなのだろうが…まだ年若いアンには、できればそんなことを語らせないでほしかった。

友人の運命に涙し、シンクロするアンに対し、たとえばマリラがそう語りかけるのであれば、すんなりと読み進めることができたのだろうけれど。

僕はきっと無意識のうちにもそんなことを感じ、違和感を覚えていたのだろうか。

 

そして帰り道、アンが感じたこととして、モンゴメリはこう語る。

 

その夜を境にしてアンは或る変化を感じた。人生は異なった意味を、更に深い目的を持つようになった。表面は以前と変わらぬ行き方をするだろうが、既に深い底が揺り動かされていた。自分はみじめな、ルビーのようであってはならない。一つの生涯の終りに到達し、次の世と向き合う時全然異なったものに立ち向かう恐ろしさで-尻込みするのではいけない-平生の思想や観念や抱負とかけはなれた或るものへの恐怖で身もだえするのであってはならない。そのときどき、その場その場では美しく、すぐれたものであっても一生の目標とする値打ちのない、小さなことに生涯を賭けるべきではない。最高のものを求め、それに従わなくてはならない。天上の生活はこの地上から始めねばならぬ。

 

今夜のおかげで、アンの中のなにかが変わった。人生がちがった意味を持つように、もっと深い目的を持つようになった。表面上は今までと同じままだろうが、深いところが揺さぶられたのだ。哀れな遊び好きのルビーのようであってはならない。この世で命を終えるときを迎えても、つぎの世を、今とはまったく違うもの-これまでのような考えや理想や望みの入りこめないところ-だと思って、恐れおののくようなことがあってはならない。いくら美しくすばらしいものでも、とるに足りないようなものを人生の目的にしてはならない。より高きものを求め、それにしたがっていかなくてはならない。天国での生き方を、この地上でも始めなくてはならないのだ。

 

う~ん…こんな難しいことを考えずに、アンにはただ、ルビーに寄り添い、彼女をしっかりと抱きしめ、一緒に涙を流してあげて欲しかった。

 

だが、この年齢、おそらくは人生の折り返し点を過ぎ、両親を看取るなかで「いかに生きるか」ということと同じくらいの重みで「いかに死を迎えるか」が大切であると考えるようになった僕には、昔感じた違和感よりも、今は、このシーンで語られる言葉の重みとその「真実」が、突き刺さるのだ。

 

僕が最近、漠然と感じていたことが、ほら、ここに明確な言葉として記されていた。

昔読んだ時には、あまり響かず、ただ違和感としてぼんやりと残っただけで、そのまま読み過ごしてしまっていた部分ではあったのだが。

 

ずっと考えていた。

両親の看取りという大役を終え、子育てという大きな役割については与えられることのなかった僕は、これからはもうすこし楽な生き方を選択してもいいのではないだろうか。

享楽的な生活を選択しても、罰は当たらないのではないだろうか。

ただ、そうしないのは、そうした生き方は僕にとっては退屈なものにしか思えないからなのだけれど。

 

死ぬことを怖いと思ったことはない。というか、怖いとは思わなくなった。

ただ、嫌なのは、死に至るまでにあるかもしれない苦痛や、それに付随する「ややこしいこと」、それだけなのだ。

だいたい、この年齢になると、少しずつ自身の慣れ親しんだ人やものは、「この世」より「あの世」のほう側に増えていく。

 

そして僕は思う。

これも実家の片付けに伴う、ご褒美のひとつなのだろうか。

昔の本を読み返し、モンゴメリのこの言葉に行きつくとは。

母のやり残した刺繍→昔読んだ本の記憶→その時感じた違和感→鉱脈の発見。

うん、なかなかおもしろい。

これもきっと「導き」のひとつなのだろう、と僕は思った。