それは本当にかわいそうで無意味な人生なのか | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

その本は、今も実家のどこかにあるはずなのだ。

でも、見つけ出すことができない。

僕がもう一度読み直したいと思った短編小説。

うろ覚えで正確ではない部分も多々あるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

 

ルーシー・モード・モンゴメリといえば、日本では「赤毛のアン」の作者として有名なカナダの作家だ。

彼女の作品は「赤毛のアン」以外にも、いろいろと翻訳されているのだが、そのなかに「没我の精神」という小品がある。

 

 

姉は不器量で足がすこし不自由だ。

父親違いの弟は顔立ちは美しいが、わがままで、時として手がつけられない。

母親は姉娘には厳しく当たるが、息子には滅法甘い。

その母が、今、臨終の床にある。

 

母は娘に誓わせる。

なにがあっても弟をかばい、守り抜くのだ、と。

やがて母は亡くなり、姉弟は近所の叔母の家に引き取られる。

わがままな弟は始終、トラブルを起こすが、姉はそんな弟を常にかばう。

 

やがて成人した二人は、母の遺した農場へと戻る。

 

娘に縁談が持ち込まれる。

弟は激怒する。

娘はその話を断る。

叔母はため息をつきながら「弟がもし、結婚するようなことになったら、おまえの居場所は無くなってしまうよ」と娘に言う。

 

やがて弟は結婚し、妻の求めに応じて、姉を追い出す。

 

それから数年後、村で天然痘が流行りだす。

弟も感染するが、実家に帰省中だった妻は、感染を怖がって、帰ってこようとはしない。

 

娘は看病のため、かつて母と三人で暮らしていた懐かしい家へと帰っていく。

 

しかし、看病の甲斐なく、弟はやがて息を引き取る。

姉に謝罪と感謝の言葉を残して。

 

すべてが終わったその翌朝、心臓発作で床に倒れて亡くなっている、その娘が発見される。

 

 

作者のモンゴメリは、この娘の人生・生き様を、肯定的な気持ちで書き残そうとしたのだろうか。

あるいは、否定的な思いで?

確かめる術はないが、僕は前者の方だと思う。

モンゴメリの作品には、「誰かに必要とされることの喜び」が、たびたび描かれるからだ。

それに…正確には覚えていないのだけれど、たしか「赤毛のアン」のシリーズのなかで、アンだか他の誰かだかが「自ら引き入れた檻は、もはや自由を奪う檻ではない」というようなことを語るシーンがあったように記憶している。

 

母の介護をしていた頃、何度か「思いやりに溢れ」「正義感を持った」方々に、母の病室で僕は「あなたが犠牲になる必要はない」「あなたが犠牲になることを、あなたのお母さんは望んでいない」と諭された。

母は気管を切開していたため、声を発することができない。

そして多くの人たちは、話すことのできない人間は、聞くこともできない、と思い込んでいるようだ。

もちろん、母の耳はよく聞こえている。頭だってしっかりしている。

 

「あ~あ、そんな話、わざわざ母の前でせんといて欲しいなぁ」

 

僕は自分自身が望み、選択したうえで、母の介護をしているのだ。

そこには義務感なんて、微塵もない。

ただ、やりたいからやっているだけのことなのだ。

やらされているのではなく、やらせてもらっている。

「犠牲」なんて言葉は、そこでは一番似つかわしくない言葉なのだ。

あまりにも的外れで、笑ってしまうほどだ。

 

なぜ今、こんなことを思い出したのかというと、たとえばヤングケアラーの問題。

たしかに解決が急がれる問題だ。

だが…彼らのすべてを「かわいそう」という言葉でひとくくりにし、わかったような気持ちになることに、僕は抵抗を感じる。

もちろん、多くを犠牲にし、我慢を重ねている人たちも多いだろう。

でも、そこに「喜び」が微塵もないかといえば…いや、「かわいそう」「犠牲」そんな言葉はむしろ彼らに対して失礼、傲慢が過ぎるのではないだろうか。

 

「かわいそうに」。言うことは簡単だ。

でも、求められているのはそんなことなのだろうか。

本当に大切なのは、安易な言葉がけではなく、理解者となること。

現状を知り、問題の本質を見極めることなのではないだろうか。

それが自分自身の「価値観」の押し売りになってはならない。

 

何事だって「一律」ではないのだ。

安易な同情はただの独りよがり、自己満足にすぎなかったりもする。

僕たちは自らの「理解ある行動」に酔いしれることなく、本質を見極め、彼らが本当に望んでいることは何なのかを知らなくてはならない。

そしてそれはまだ、最初の一歩に過ぎないということを、自覚しなくてはならないのだ。