二、三年ぶりに、知り合いを駅で見た。
その人(多分75歳くらいのおばあさん)は、
多分通りかかった見知らぬ親子の小さい子供に笑顔で話しかけていた。
変わらない
と思い、
通り過ぎた。
自分もその老婆に関わったことがある。
地域で、絵本の読み聞かせをしたり、絵本を貸出したりしている人だ。
私は、初めてその老婆に出会った時、
なんと、奇特な人が居るものだ、と思い、
元々本が大好きなもので
手伝いをすることになった。
私と老婆は、うまくいっていた。
その老婆と交代で、絵本を、近所から集まってきた子供たちに読み聞かせをする
折り紙を折って遊ぶ。
自然に時間が過ぎていくような絵本の時間は、
もうひとりの女性が現れるまでだった
その女性は、私と同じ年頃だったろう
今から考えても、その女性を分析することはできない、
そこが深い人だった。闇の底が深い人だった
何度かいっしょになるうちに、
その女性の夫の父親が、牧師をしているということがわかった。
老婆は、プロテスタントの信者だった
プロテスタントの信者さんは、牧師のことを○○先生とよぶらしい。
彼女の義父のことを、○○先生、と呼んでいた。
私は宗教では、関係がない。
表向きはうまくいっていた。
絵本を整理したり、読んだり、
子供たちと遊んだり、
しかし、わたしには、老婆が明らかに表向きは平等に扱っているふうにしながら、
その女性に特別に、贔屓したい、
という老婆の欲望のような気持ちが感じられた。
絵本を置いてあるところは、老婆の自宅のなかの、生活と離れた場所。だった
しかし、老婆は時々、お茶をいれようか?
と、私たちを居間にさそう時があった。
それは、彼女、その女性がいるときに限られ、
おしゃべりの中で、彼女の絵本や児童書に対する初見を、老婆は評価していた。
私は、自分の初見を聞いてもらいたいという気持ちはなかった。
自分が読みたい本を読んでいるだけ、
老婆や彼女に所見を聴かせるために読んでいるのではない。
この、不思議な3人の絵本の読み聞かせは、会を重ねるに従って、
老婆の彼女に対する憧憬のような感情は、
もう、表面に出すこともためらわないくらい明らかになっていた
私は、その老婆になにかして欲しいと思ったことはない。
しかし、なにかの感情が生まれなかったとは言えない。
ボランティアで、老婆の私設図書館の手伝いをしているのだから。
あるとき、古い本を整理しようということになり、
作業をしていると、
その処分する本をもらって帰ろうということになり、
彼女は、次々と自分の欲しい本をとっていく
に対し、私は、欲しいとは言えなかった。
というより、それほど欲しい本はなかった。
その時彼女が何といったかといえば、
「わたし、この作家、あまりすきじゃない、なおりさん、この本持って帰ったら」
こういう場面で、
誰かにこれにしたらどうとか、自分はこれが欲しいとか、
そういうことは今までしたことがない自分だった。
そんな風に育てられていなかった。
欲しいものは与えられたし、何かをものすごく欲しいと思うこともなかった。
そういう自分に対し、
自分はこれが欲しい。
と主張しなければ、自分のものにならない。という、彼女の育ってきた環境の違いだろうか?
そして、老婆のところから彼女と帰る途中になると、
彼女は今度は私に対し、依存し始めるのだった。
これほど、切り替えを早くできるのだな。と呆れに似た気持ちで彼女を見るのだが、
そういう、依存体質の、
自分は依存するべき人間で、
それを助ける義務が他人にはある。という依存心を、
彼女は常に誰かにもっていた。
ハンターといってもいいかもしれない