ナク *失* | 恣意的なblog.

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僕は歩く。

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夢の中で何かがライズしたんだ。
無意識に伸ばした覚束ない両腕が掴んでくるのは
いつも決まって不確かな現実だったから
僕はそれを愛おしく思い、眺めているだけで
満足をしているふりをした。



数年後。



季節は初夏を迎えていた。

朝方はどんよりとした曇り空だったのに、いつの間にか太陽が顔をのぞかせはじめたお陰で気温が急激に上昇し、湿度を伴う蒸し暑い一日になった。例年に比べると雨が少ないせいか、土壌がからからに渇いていて、道端に生えている草木はどことなく生気に乏しかった。

まだ暑さに慣れていない僕の体は体温を下げようと必死だった。柔軟な機能を有した球状の細胞は、温度変化が激しい気候に混乱を繰り返し、意にそぐわない分裂を始めているようだった。それにはこの身体が最も苦手とする、連鎖的向上というものを必要としていた。

(役に立たないからだだな)一つため息をつく。
(目的の場所までもうすぐだから、頑張るんだよ)どこか他人事で、悲鳴を上げ続ける自分の体にあまり興味はなく、首筋に伝わる汗などさして気にならなかった。

向かう先に、ひっそり建っている古びた木造の売店を見つけ、強い日差しを避けるため中に入った。店内には店番をしている女性がレジ台のところに座り、時折欠伸をしながら老眼とおぼしき眼鏡をかけて新聞を読んでいた。この時間帯にやってくる客がよほど珍しかったのか、陳列されている商品を眺めながら何度も目が合ったので、話しかけないわけにはいかなくなってしまった。

「おばさん、菊の花しか置いてないけど、菊ってなんか意味あるん?」
「さあ、なんでだろ、考えたこともなかったよ」目尻に皺をたたえながら、優しい微笑みを返しくれた。

「平日に珍しいね、若いのに一人でお墓参りかい?」
「うん、地図を見ながら初めて来たんだけど、ここまで来る坂がきつかったからもう汗だくだよ」

「そうなのよねえ、でもお墓のあるところから望む景色がすばらしいから。ご褒美としてゆっくり眺めていくといいよ」
「ありがとう、それは眠っている人たちも見ている風景なんだね」

「眠っている人たちは見れないよ、だって眠っているのだもの」

僕は菊の束とミネラルウォーターを買い、売店のおばさんにお別れを言ってから店を出た。おばさんは店の軒先で手を振りながら僕を見送ってくれた。そして、道の先を指差し「もしかしたら起きている人がいるかもしれないよ」と言った。さっきの発言を補っているようだった。

売店からも坂道が続き、道端の木々が徐々に少なくなってきた勾配の緩やかな砂利の傾斜を上りきったところで、急に景色が開けた。潮の香り。墓地は海が望める高台にあった。そこから眺める景色は確かにすばらしかった。「ほんとうにきれいだ」僕は独り言ち、しばらくその場に佇み目を瞑りながら、心に浮かぶ何かを感じ取ろうとした。そして目当ての墓標を探すため、石畳がきれいな階段をのぼり、墓石に彫られている名前を見て回った。

それを見つけたとたん、ふいに涙がひと雫こぼれ落ちた。潮騒は遠く、徐々に音は掠れ、白く淡く、僕の意識は大切にしまっていた遠い記憶の中を彷徨い始めた。

ごめんね、ナク。やっとこれたよ。ここに辿り着くまでずいぶん時間が掛かってしまったんだ。

辺りの雑草を抜き、備え付けの桶と柄杓を借りて墓石をきれいにし、最後に売店で買ってきた綺麗な白菊を花瓶に生けた。なんで菊の花というのはこうも人を感傷的にさせるのだろう。強い日差し、遠くに聞こえる蝉の声、辺りに誰もいない墓前に向かいナクを必死に思い出した。


全ての出来事を。

僕は事実を語らないといけない。そこに美しい物語を奏でるドラマはなく、あるのは取り残された現実が連なる、ありふれた日常だけだ。ナクは自ら命を絶った。正確に言うと、事件のあった数日後には命を絶っていた。それを皆は伏せていた。ナクの両親も、友達も。両親は息子の関わりがあったので苦心されたのだと思う。僕がユウジから事件の話を聞いた時には、もうすでにこの世界からいなくなっていた。葬儀はなかった。誰も知らせてくれる人はいなかった。最後に顔を見ることも叶わなかった。

ナクは僕があのような暴力的行動を起こすことを予見していたのかもしれない。僕のために死というものを選んだのかもしれない。それは今でもわからない。その可能性はじゅうぶんにあった。事実、数人を病院送りにしたというのに、そのグループから報復されることは一度もなかった。報復なんて生易しいものではなかったはずだ。それは図らずもナクがもたらしてくれたものだった。そして僕は卒業を機に、ナクの存在しない陰鬱な情景のその街を離れた。もうそこに僕の居場所はなかった。


墓前の前で汗ばんだ手の平を拭い、ポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。それは風化し黄ばんでいたが、僕にとっては命より大切なものだった。最後に友達から貰ったナクからの手紙で、そこには書きなぐられたような文字が二つ書かれていた。
「ありがとう。ごめんね。」
ごめんねってなんだよ!ナクはそんなに弱くないだろ!俺のこれから生きる意味って結局なんだったんだよ!教えてくれよ!


ナクはそれを書くので精一杯だったんだね。

ああいうものが、もはやこの世からなくなってしまった。それは紛れもない事実だった。僕の気持ちは四方を囲まれた籠の中に捕らえられ、あまりの不条理にありとあらゆるものを呪い、人の背中を憎んで歩むことしかできなくなってしまった。


それから数年、僕は生きているようで生きてはいなかった。日々を追うごとに冷淡な人間になっていった。仕事が終わり繁華街に繰り出し、酒を浴びるように飲む。街灯が眩し過ぎる路地を一歩入ると、そこは汚物の臭いがたちこめ、自分が放つ悪臭のような錯覚を起こし決まって吐いた。どこかに死に場所を求めているようなものだった。傷についた瘡蓋は、癒えそうになると肉が抉り取られて剥がれ落ち、さらに深い傷になっていった。

その頃には誰を抱いても何も感じなくなっていた。それでも隙間を埋めるため手当たり次第にそれを求めた。助ける努力をしてくれる女の子もいたが、無駄なことだった。くねくねと地中に根を生やした罪深い闇の出来事をどうやって掘り抜き、均してくれるというのだろう。しばらくするとみんな諦めて去っていった。僕にできるのはこの現実から目を背けることしかなかった。

ありはしない幻影を追い求める日々の中、体の不調が続き、持病を患ったのもその頃だった。ここに来るまでどれぐらいの時間が流れたのだろう、僕は僕であり、僕は誰かの僕でもあったはずだ。でも本当は、この場所にいる僕が僕である所以なんだろう。


数年前、久しぶりにオガワが飲みに誘ってくれた。就職してからなかなか会う機会がなかったので、昔話に花が咲き、とても懐かしい時間を過ごした。ナクのことは一切触れてこなかった。ただ最後に言ったんだ。「お前は俺たちの分まで長生きしろよ」と。「俺たち?」疑問をぶつけてみたが、オガワは何も答えてはくれなかった。オガワの体の変調には気付いていた。

「なあ、たく。最後に握手でもしようか?」
「気持ち悪いなあ、まあたまにはいいか。言っとくが汗ばんでるぞ」
「何年の付き合いだ?知ってる」

お互いニヤニヤしながら握手を交わした。少し明るさを取り戻したオガワの顔は、久しぶりに悪巧みをしているそれだった。
「また必ず会おうな」言葉には出さなかった。

体を蝕む病と闘っていたオガワとはそれが最後になった。


僕からいろんなものを奪ってしまう、死というものが憎かった。人は強くなるなんて嘘だ。強くなるんじゃない、悲しみに耐性がつくだけなんだ!僕から何人奪えば気が済むんだ?もう一人ぼっちは嫌なんだ!その悲しみはいつも突然やってくる。人目を憚らず、何度泣いても涙が枯れることはなかった。行き交う人は僕を笑う。それでも好意を示してくれる人はいた。誰かは僕を本気で助けようとしてくれていたのかもしれない。でも、そんな好意に甘えることはできなかったんだ。こんな僕には関わらないほうがいい。混沌とする意識の中に存在する光の届かない泥の気泡の中に閉じ篭り、背を丸めながらいつも泣いていた。


光の裏にキミは佇み、隠れているだけなんだろう?僕はそれを見つけられないだけなんだ。この葉を返せばいつの日か笑顔ふりまくキミを見つけられる。そんな想いに捉われ続けていた。僕はうずくまりそのまま露と消えてなくなりたかった。いつまでも心に新しい風が吹き込むことはなく、僕の気持ちは澱んだままだった。ましてや生きる理由など見つかるはずもなかった。

長い月日は出来事をあるがままの形で風化させ、炭のようにぼろぼろになった暗灰色の表層は徐々に崩れ落ち始め、目を凝らせば残った本質が理解できるようになっていた。でも僕は見ないふりをしてそれを頑に拒んだ。僕を納得させる摂理なんてこの世にあるわけがない。頼むからナクを返してくれ。全て陳腐なこの世界。なぜ僕はまだこの場所にとどまっているのだろう。



そして、僕はとうとう愛という感情そのものを失ってしまったんだ。

ナクとともに。