tvxqtvxq-20のブログ

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いい感じを集めていると、やな感じもはっきりとやってくるとさきこさんは言ったけど、ほんとだったな。

今日なんかすごくやな感じだった。それは多分、自分の在り方。「やりたい」に従って人生を選択していきたくて、休みの日の今日は、家でダラダラ過ごすのではなく、外に出ていろんなものに触れたいと思ったところまではいいのだけど。


あまりにも自分が「人からどう見られるか?」「勝つために顔面がイケてるか?」「何者かになるために何をするかだが正解か」ばかりが頭を占めていて、頭の声がいちいち純粋ではなかった。

「やりたいをやる」っていう、その「やりたい」は体感覚に基づいた、純粋な「やりたい」でなければいけないはずなのに(それが本質なのに)、打算的な、生きてきた中でこれが正解と作り上げてきた(設定とも言うんだろう、それが)頭の声に支配されて、その純粋さで全く動けなかった。


それがすごく、ずっとやな感じだった。ものすごく気持ち悪かった。

それで私は、「早くいい感じをいつも通りキャッチしないと」「体感よくならないと現実良くならない」と焦って(その時はそんな気持ちに突き動かされてると気づいてなかったけど)一生懸命いい感じをキャッチしようとしてた。

でもどう頑張っても。いつもいい感じになるようなものを見てもいい感じにはならず。そこで、ある段階で諦めた。もういいや、やな感じならやな感じのままでと。

そしたら、すごく「いい感じ」になった。

全ては喜びとわかったと言うのはそのこと。

日常でいい感じをキャッチして行った時に、こんなに至福に包まれる瞬間が、ただの日常にこんなにあったんだと気付いたんだけど、それは、太陽の柔らかい光や、藤井風の曲、親の存在とか、分かりやすく「そりゃいい感じだろうな」と自分でも頭でも理解できるだろうな、と。

気付いてなかった日常の幸せに気付いたから幸せな気持ちになったんだと、そう理解していた。

でも今回、やな気持ちのはずなのに、諦めてそれを受け入れたら、上に書いたことと同じ「いい感じ」が訪れた。それはやっぱり、「何を感じてもいいよ」っていう態度を自分に取れたからだと思う。

その安心感がいい感じとして訪れたんだ。

やな感じだったはずなのに、それを諦めて感じたら、いい感じが訪れた事で、結局何を感じたところで幸せなんではないかと感じた。

というか、体で知ってしまった、という感覚が近い。

やな感じもいい感じに繋がっているのなら、幸せからは逃れられない。何をやっても幸せからは逃れられないと感じた。

だからやりたいことやれってことか。
はるラボで言われた事、全ては喜び、さかこさんが言ってたことはそう言うことか。
今まで真逆だったな。幸せになって怖くなくなったら、何でもできるんだと思ってた。
すでに幸せで、何を感じても何をしても幸せで、だからやりたいことやればいい、そう言う事だったんだ。
うまく言葉にできないけど、学びが体の感覚まで落とせた気がした今日でした。