最近どうも気になるフレーズがある。
「とっても考えさせれた」
「自分の価値観が変わりました」
こんな感じのフレーズを効くといつも頭に「?」が浮かぶ。
しかも、しばしば耳にする。
これでは思考が停止している。←と偉そうに言ってみたり
あなたは一体何についてどのように考えさせられたのですか?
あなたは一体今までどのような価値観を持っていて、それが一体どのように変化していったのですか?
なぜこんな事を思ったかというと、個人の情報発信という名の元にこのようなフレーズが散見されたから。
レビューなどに。
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人は自らの記憶で映像を見るという。
例えば、人が何をリアルに感じ、何をリアルに感じないか。
それは脳に蓄積された情報による。
つまりは、今まで見てきたもの、得た情報に類似するものをリアルと感じ、そうでないものリアルに感じない。
だから、同じ絵や映像を見ても人によって見え方が違う。
例えば、時代劇のチャンバラなど、刃物で人を刺すシーンというのはゲームでもテレビでもよく流れる。
その際「ブシュッ」という効果音が付随する場合が多い。
しかし実際刃物で人を刺したり切ったりしてもそんな音はしない。
料理を作る時、肉を切る度にそんな音が鳴っていては堪らない。
でも、そんなシーンをテレビで見ても何の違和感も感じない。
むしろリアルに感じる。
何故か。
それは人を刺した事が無いからだ。
あくまで、毎回「ブシュッ」という音と共に繰り広げられるシーンしか見たことが無い。
つまり、「ブシュッ」という音が、人を刺すシーンとセットで脳にどんどん蓄積され、その蓄積された音情報を基に映像を見るから、「ブシュッ」と人を刺すシーンがリアルに感じる。
(もちろん「ブシュッ」という効果音が残す響きが、肉を断つ様子を連想させやすいからこそ、その音情報が人を刺すシーンと共に脳に蓄積されていくのだが)
もしかしたら、人を刺した事がある人はこのシーンがリアルに見えないかもしれない。
つまり、人はモノ(映像、文章、絵画なども含む広義の意味で)を見る場合、
その人が元々持っている情報(言語、文化、音、視覚情報など様々なものを含めて)に拠る。
となると、その情報が違えば、同じモノでも違って見える。
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人は生まれも違えば、育った環境も違うし、これまで見てきたモノ、聴いてきたもの、全てが違う。
だから、人それぞれ見えるモノが違う。
その違いが見える所が、冒頭で述べた、「何に」や「どのように」といった部分だ。
情報を発信する場合、その「違い」が現れなければ全く意味を成さない。
何故なら、情報を発信する行為というのは、発信者の持っている情報を受信者に対して提供する行為だ。
簡単に言えば、「違い」を伝える行為だ。
こう言うと、「何を当たり前の事を」となるが、その当たり前の事が行われていない現状があるように思える。
冒頭のレビューの話などもそうだが、身近な例で言うと就職活動の面接だ。
正しく、面接で聞かれるのは「違い」だ。
しかし、「何で?」「どうして?」と聞かれたら上手く答えられない。
たちが悪いのになると「あれは圧迫面接だ」となる。
就職活動に限らず、情報を発信する場合キーとなるのは「違い」だと思う。
「違い」を考える力、伝える力が必要だ。
これは自分に対する戒めでもあるのですが。

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