左翼撲滅作戦

左翼撲滅作戦

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アフリカで眠る日本帝国海軍軍人

戦後日本は、
日本軍人が勇戦した忠勇武烈な愛国物語を教科書やマスコミが取上
げた事がなく、
ことごとく削除しました。...

奈良時代の防人も、鎌倉時代の元寇も、
明治以降の日清・日露・大東亜戦争の勇戦も取上げず、
全て反戦の立場で記述してきました。
そのため当時の日本人の国民的団結も、危機に臨んだ民族の原動力
も、
そして参戦した戦死者の心情も語られないままでした。
日本人の魂が最高に燃焼した体験を伝えず、
自分の国は自分で守る心の育成が全く出来なくなっています。
・・・・・・

大東亜戦争時に日本帝国海軍が、
日本から1万数千キロも離れたアフリカまで行かれたのをご存知で
すか。
波荒きインド洋を越え、生身の人間が
小型潜水艇で敵陣に斬りこんで行った日本軍人がいました。

なぜ、日本がアフリカまで行かねばならなかったか。

大東亜戦争緒戦、日本は赫々戦果を挙げました。
開戦前にベトナム、カンボジア、ラオスは日本の支配下であり、
マレー沖海戦でイギリス極東艦隊は全滅、
香港、シンガポール、ビルマのイギリス軍を撃破し、
インドネシアではオランダを破っています。
日本は欧米諸国の東亜侵略百年の野望を覆すべく、
アジア諸国の独立を正義としていました。

イギリスはインドを手放すわけにはいきません。
インドを抑えるにはマダガスカルを制圧せねばなりません。
当時、マダガスカルはドイツに降伏したフランスの統治下にありま
した。
イギリスのチャーチルは
「早いうちにマダガスカル島をフランスから占領しておかねば、
日本海軍が占領するかもしれない。
マダガスカルの北にあるディゴ・スワレズ軍港に日本海軍が入った

インド洋は日本に制せられ、インド独立の気運が一気に火を噴き、
それはアフリカに及ぶ」
このように日本に対して危惧がありました。

イギリスはフランス軍と激戦を交え、
700名の犠牲を払ってディゴ・スワレズを占領します。
それを知って日本はこの軍港を攻撃するのです。
・・・・・・

昭和17年4月。
特殊潜航艇による第二次特別攻撃隊に出動命令が出されます。
東方隊はオーストラリアへ、もう一方の西方隊はアフリカへ。
今回のお話は西方隊の方です。

4月16日、広島県柱島を出港。
西方隊はシンガポール、マレー半島ペナン、インド洋からアフリカ
東海岸へ。
当時の潜水艦は水中を蓄電池で潜行するので、
電池がなくなれば浮上して水面航行で蓄電しなければなりません。
それは制海権も制空権もない中では非常に苦しく難しい航行です。

潜水隊はインド洋を南下しマダガスカルの南、モザンピーク海峡を
北上します。
偵察機でディゴ軍港に敵の主要艦船が在泊しているのを確認します

いよいよ特殊潜航艇による攻撃です。
ここまですでに1ヵ月半。

ディゴ軍港を攻撃した特殊潜航艇の搭乗員は4名です。

秋枝三郎大尉(下関市)と竹本正巳 一等兵曹(広島県)が一隻に乗り、
岩瀬勝輔少尉(香川県)と高田高三 二等兵曹(福井県)がもう一隻に乗り込みます。

四人とも攻撃が終わったら生還するように、
山本五十六連合艦隊司令長官や和泉潜水隊司令から、
くれぐれも言われていました。

5月30日午後5時半、出陣前。
艦内で缶詰の赤飯が開けられ、壮行の小宴が士官室で持たれました

皆、ヒゲを剃り、身体を拭いました。
艦長から「刀を持っていくか」と聞かれると
秋枝大尉は「やっぱり持ってゆきましょう。武士の魂ですから」
秋枝大尉(写真)は出陣する前、文子夫人からせがまれて結婚し、
結婚後二週間で出陣してきました。

・・・・・
母艦から離れた二隻の潜航艇。
一隻はそのまま軍港に潜入し、
軍艦ラミリーズ号と近くにいた油槽船の横腹に魚雷を撃ち込みまし
た。
軍艦ラミリーズ号は数ヶ月間活動不能状態になり、
油槽船ブリティッシュ・ロイヤルは撃沈。
この戦果を挙げても二人は攻撃の手を緩めずに、何と、上陸して戦
ったのです。

二人は上陸後、抜刀して斬りこみを敢行しました。
イギリス人は度肝を抜かれます。
しかし二人は戦死、イギリス兵六名が死傷しました。

後にチャーチルはこう記しています。
「二人の日本海軍軍人は祖国のために献身し、類まれな功績をたて
た」と。

・・・・・・

もう一方の潜水艇は防潜網をうまくくぐり抜けて湾外に脱出しまし
た。
約束の時間までにモザンピークのバエタエタの沖合いの母艦に戻ら
ねばなりません。

しかし、インド洋の荒波に翻弄されノシアレス島の岩礁に衝突して
動けなくなりました。
二人は付近の漁師に頼んで対岸のアンダラブイという部落に上陸し
ます。
そこから地図を頼りに陸路で歩きます。
道らしい道のないまま40キロの道のりです。
攻撃から4日目、潅木しげる丘をいくつか越え、
やっとモザンピークに着きます。

しかしその時すでに約束の時間が過ぎていました。
母艦も攻撃の夜から3日間、ずっと潜航艇を捜索していました。
しかし合図をキャッチできず、そのまま離れてしまったのです。
二人の勇士はただ海面を眺めるばかり・・・。

そこに銃口をかまえた十数名のイギリス兵が現れました。
「抵抗は無駄だ、降伏せよ」
双方に大声の応酬が置き、拳銃が発射されました。
イギリス兵たちは一斉射撃。
二人は全身に弾丸を浴び、その場で戦死しました。

その後、イギリス兵は現地の丘に穴を掘らせて日本軍人二人を埋葬
しました。
しかし墓標もなく、その位置が確認できません。

昭和51年、マダガスカル共和国の日本大使館の尽力により
現地に慰霊碑が建立されました。
この慰霊碑には日本語とフランス語でこう刻まれています。

「日本海軍特殊潜航艇二勇士 一九四二年六月三日コノ地ニテ死ス 
一九七六年11月十日 日本国大使館建立」
・・・・・・

さらに平成9年5月、多くの参列者のもと、四勇士の慰霊碑の除幕
式が執り行われました。
日本とマダガスカルの国旗に並んで、日本海軍の軍艦旗が掲げられ
ました。

・・・・・

この四名の遺体は日本には帰らず、
誰も訪ねることの困難なアフリカに近い僻遠の地で今も眠っていま
す。

現地の人たちはこの日本軍人に対して、
異口同音に感動し、その勇気を讃え、英雄として評価しています。
日本軍人の勇者の魂は、現代の日本人の心の中ではなく、
現地の人々の心の中に生きているのです。

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