(『金沢法難を尋ねて』 向 敏子氏から)
第六章 ぬけ参り 二,ぬけ参りの末裔 ①
平成三年十二月二十日に、私は金沢ライオンズクラブの社長会八十名の総会に講演を依頼され、「加賀百万石の武士たち」と題して約五十分の記念講演をした。金沢と富士大石寺の係わり合い、そして加賀のぬけ参り、さらに生命は三世に続いて我々子孫に強い影響を及ぼしていることなどをお話しした。
講演終了後、「アルテシマダ」の島田会長が、是非その話しの続きを聞きたいと対談を希望された。 (中 略)
島田家がなぜこのように栄えているのか興味をそそられ、島田家の仏壇を見せてもらえないかと願い出た。会長は気持ちよく応諾された。仏壇の中には、京都本能寺派(法華宗本門流)の本尊が祀られていた。私は過去帳を見せていただいて驚いた。なんと島田家の先祖として冨士派信者の片岡氏一族の方々が記帳されていたのである。(かつて、この野田さんが、土の中から片岡氏一族の墓を発見した経緯があった) 私は、島田会長に「先祖から伝わる、何か巻物のようなものはありませんか」と尋ねてみた。(乃至)仏壇の一番下段の奧の方から先祖伝来という箱が出てきた。ご家族どなたも見たことがなかったということで、開けてみると中からは何と総本山第四十八世日量上人御書写の御本尊が表れたのである。この御本尊の脇書きには「島田誠左衛門授与」と認められていた。まぎれもなくぬけ参りの頃、授与された常住御本尊であった。 (乃至)
『武士帖』で確認すると、片岡氏と菅野氏は縁戚関係にあり、菅野氏の子息が島田誠左衛門であり、菅野氏が島田家を継いでいることが分かる。 (乃至)
江戸時代の寺請制度の改宗困難な時代にあって、富士派の信徒たちは、その子孫たちが代々信心の灯をともし続けることを願った。しかし世代交代とともに、先祖のともした命懸けの信心が、次第に過去のものとなる課程を見つめながら、いかに法統相続が難しいものであるかを感じることが出来たのである。 (乃至)
北陸では知らない人のいない島田家の繁栄も、その源は藩の命令で、富士派の信心を捨てなければ命を落とす時代に、命がけでぬけ参りをして本山に走ったことに始まるのである。
そして大聖人の御金言の通り上七代下七代の因縁果報を得たのであり、ご先祖の残された御本尊とともに今日にいたったことを改めて確信したのである。
第七章 弾圧とたたかった加賀信徒 一,厳しい弾圧の中で
天明三年五月七日付の第三十八世日泰上人の筆による「登山証」が妙喜寺法華講員の赤尾家に現存している。
赤尾家は代々の強信者であり、二百年以上を経過して紙は茶色に変色し、虫食いの穴が貴重な登山の歴史を語りかけてくれる。
この厳しい弾圧下にあって、どのような気持ちで登山されたのであろうか。本当の登山の喜びは、本門戒壇の大御本尊まします総本山を信心の古里として感じ取ることが出来るかどうかということに尽きると思う。どんな厳しい時代であろうと、豊かな時代であろうと戒壇の大御本尊を渇仰恋慕する信仰には少しの違いもあろうはずがない。違うように映るのは人間のわがままなのである。
それが加賀信徒が「ぬけ参り」などで後世の私たちに教えてくれる登山の精神なのである。
一方、総本山に反逆して破門され、生命の古里を捨てた今日の創価学会は帰る港を失った漂流船のようなものであり、いずれは業障海の荒波の中に沈没して行く定めにあることはいうまでもない。 (乃至)
天明五年十月には藩主諌暁書を上呈したことで、竹内八右衛門は三回目の閉戸の刑を受けた。さらにこの竹内氏に対してとった藩の処置を不服として田中長左衛門は「竹内氏言上の趣を御用いるべきである」とした催促状を上呈した。その結果天明六年三月六日竹内八右衛門、田中長左衛門の両名は割場(足軽支配の部署)預けとなり、数日後入牢となった。そして加賀牢内で拷問が始まった。一ヶ月後、まるで大聖人の宗旨建立日を選んだかのように四月二十八日、竹内八右衛門は七十三歳の信心ひとすじの壮絶な生涯を閉じた。入信四十五年目の牢死であった。先にも触れたように、生前拷問により、歩行不自由となった身を支えられながら、一歩一歩あるいて来た場所に現在の妙喜寺が建立されている。取り調べ役人であった久里奉行の役宅が妙喜寺の斜め前にあったからである。因縁とは誠に不思議なものである。
竹内八右衛門の一生は、度重なる閉門と無給により、借金は重なり、それを返済するための赤貧の生活が続いた。足軽小頭として、五十名程の部下があったが、最後は平役に落とされていた。
信仰仲間は次々と捕らえられ、閉門処分を受けていく中で、一歩も退くことなく、一同が異体同心して法難に立ち向かう勇猛心を支えることができたのは、ひとえに歴代上人の激励の声がいつも胸中に響いていたからである。
「かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ」 (『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺 蔵)
これは、第二十六世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。 (『金沢法難を尋ねて』(『金沢法難を尋ねて』七二~六・一三四~六頁 趣旨抜粋)
第七章 二,竹内八右衛門の牢死と柳原墓地 ②
昭和五十五年六月十日に妙喜寺百周年記念法要が、御当代日顕上人猊下により奉修され、妙喜寺前に「忍難」の石碑が建立された。
そして丁度一年後の昭和五十六年六月十日には私の父が六十七年の人生を閉じ、葬儀は妙喜寺で執行させていただいた。五十二年の学会問題の時、「絶対に総本山が正しいのだ」と私に言い切った正直一徹の父であり、強信の父であった。
ところがその父の実弟にあたる私の養父は現在も信心に反対しているが、昭和四十五年にあることで家庭裁判所に訴えてきたことがあり、日蓮正宗の信仰が争点となった。私は裁判所で調停員に向かって日蓮正宗を理解していただくために結果的に折伏することになった経緯があった。金沢法難の調査をしていくうちに、その調停員の先祖は、金沢信徒を信仰禁止令のもとに裁いた方であったことが判明した。城下町金沢の持つ歴史の永さはそのまま不思議な因縁の凝縮した町であり、信心が無ければ聞くことは出来ないが、三世の生命を私たち妙法の信徒に語りかけてくれる貴重な歴史の町であることを実感したものであった。
私たちがこの世に生まれて以来、「出会う人ことごとくに折伏していかなければならない」と御指導いただいたことがある。一人の人間が生きていく爲にはあらゆる人々がのっぴきならない関係を保ちつつ、総掛かりで一人ひとりの人生を成り立たせているのである。一人で生きているように思う人は自分だけしか見ようとしない道理に疎い衆生の錯覚なのである。現世に生きていることは、まぎれもなく過去世の因縁に基づくのである。そして生命の奥底では無量の人々と様々な因縁のもとにつながっているのである。私たちは三世の生命のまっただ中信心をさせていただいていることを思えば、広宣流布を展望する時、妙法の順逆両縁をあらゆるところから結んで置くことは実に重大なことであると確信する。
第十章 野田山墓地 二、加賀百万石の文化遺産
このように処理された一つに、やはり富士派信者の岡崎直之氏の墓があった。集められた無縁墓の郡列を時間を忘れて見つめていた時、諦めるよう促されたが、無縁墓を一つひとつ唱題をしながら探していくと、岡崎氏と思われる墓石が目に止まった。
こうして、ついに岡崎直之氏の墓を発見することができたが、これは極めて稀なことである。この岡崎氏の墓石の側面には辞世の句が刻まれていた。「傳え聞く子は持つべきや 魂祭り」と。「魂祭り」とはお彼岸やお盆のことである。いかに法統相続が大切であるかを痛感しながら墓に向かって合掌した。金沢法難を乗り越えてこられた強信の方々があったればこそ、現在私たちが妙法のもとに巡り会えたことを考え、後日母と連れだってこの岡崎氏の墓石に塔婆と樒を供え感謝を込めて唱題したものである。
その数二十万とも三十万とも言われる無数の墓の郡列の中を巡りながら、つくづく感じたことは、大多数を占める念仏の墓は、念仏の哀音が聞こえてくるようで寂しさが伝わってくる。
それに引き換え、冨士派信仰の人たちの墓は、たとえ子孫が不明になっても、雑草の中に逞しく立っているような気がしてならない。
永年墓の調査をしていると、様々なことに遭遇する。墓地の中で自殺者が出たり、雪の重みで太い松の枝が突然折れたりして、驚かされる。またイバラのトゲが刺さったりで難儀する。台風によって大木が倒れ、墓石を叩きつけることもある。つい数年前、富士派信者を迫害した役人の墓を探していたところ、前日の台風で桜の大木が倒れ、取り除くために職員三名と同道した。墓石の頭に大木が倒れてかぶさっていた。下敷きになっていた墓は信者を迫害した武士のものであった。生きた人間であれば恐らく即死状態であろう。あまりの不思議さに慄然としながら、夢中で写真に収め、記録に残したのである。こうして様々な出来事を体験しながら、広大な野田山墓地の隅々まで調査したものである。特に吉川氏や安武逸角氏の墓なども苦労の末に探し当て、感慨深いものがあった。とにかく沢山の富士派信者の墓を発見することができた。ぬけ参りで有名な菅野氏の墓には青々とした樒が茂り、周りには桜や紅葉、寒椿などがあり、まるで季節を楽しんでいるように感じられた。この広大な野田山墓地の中を歩くと、時間が駆けめぐるように、実に様々な因果にあやつられた人間模様を無言の墓石が語りかけてくれるのである。
人間一人ひとり宿業が違うのである。したがって、その死の原因も宿業によって一人ひとり異なるのは当然であるが、野田山四百年の歴史と、その中に埋もれた富士派の信者の行跡を重ね合わせていくと、あまりにも厳しい因果の現証に直面し、人生観を変えざるを得ない衝撃に襲われてならない。
野田山墓地正面の左手に一際目立つ墓がある。幕末に前田家十四代慶寧 の身代わりに切腹した松平大弐の墓である。この方の先祖には蓮華院殿という強信の女性信者がいたが、法統相続が出来ずに子孫は亡び去っている。多分御本尊を粗末にあつかった宿命の姿なのだろう。児井本家は栄え、分家の方は殺害されて絶えている。法統相続が出来なかった分家は絶家となった。
(『金沢法難を尋ねて』(『金沢法難を尋ねて』七二~六・一三四~六頁 趣旨抜粋)