今年もよろしくお願いします。


 2022年初のブログになりますね。

 私は正月は実家に帰ってゆったりと過ごしていましたが、なんだか居心地があまり良くありませんでした。皆さんはどのような年末年始を過ごしましたでしょうか。


 さて正月には「あけましておめでとうございます」と言って新年を祝いますね。

 

 確かに一年無事に生きて新年を迎えられたことは有り難いことですが、そもそも自分の意志とは関係なく生まれてきて日々頑張って生きているのはなぜだと思いますか?


 新年早々嫌な話だと思われた方もいるでしょうが、その答えはお釈迦様の有名な言葉にあります


天上天下唯我独尊

(てんじょうてんがゆいがどくそん)


 皆さんも一度は聞かれたことがあると思いますがこの言葉はお釈迦様が誕生せられた際に、東西南北に7歩ずつ歩かれ、その上で右手で天を指し、左手で地を指して言われました。


 そうされた理由は後に説明します。


 非常に有名な言葉ですが、その意味は大変誤解されて広まっています。


 「天の上にも天の下にもただ俺だけが尊いんだ」という意味だと思っていませんか?


 巷でも偉そうな人、傲慢な人のことを「あいつは唯我独尊だ」と言ったりしますよね。


 お釈迦様といえば世界三大聖人に数えられる人格者ですから、そんな周囲を見下した発言をされる訳がありません。


 「唯我独尊」の「我」とは我々人間のことです。この記事では出ませんが、お釈迦様自身のことを言われるときは「吾」という字が使われます。


 この言葉の本当の意味は、


大宇宙でただ我々人間のみになし得る唯一の尊い目的がある


 ということです。「天上天下」に当たる「大宇宙」とは人間の世界も含めた6つの世界、「六道(ろくどう)と比較して言われています。


 地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天うえ界という世界です。


 それぞれがどのような世界かはこの記事では割愛しますが、いずれも迷いの世界でありこれらの中で私たちは生まれては死に、生まれては死にを繰り返しています。


 この六道の中で人間のみに達成出来る、たった一つの目的があるのです。


 お釈迦様が生誕後東西南北に7歩ずつ歩かれたのは、六道から一歩出ることを表されています。


 右手で天を指されたのは天上界を表し、左手で地を差されたのは天上界、人間界を除いた4つの世界を表されています。


 これらの迷いの世界の六道を離れて悟りの世界、仏の世界に行くことが仏教の目的です。


 そして六道から抜け出られるのは人間界だけなのです。


 天上界は天の上の世界と言うだけあってとても楽しみの多い世界ですが、それゆえに楽に溺れて仏教が聞けず、残りの世界では逆に苦しみが多すぎて仏教が聞けないのです。


 人間だけが仏教を聞いて、仏の世界に行くことが生きている時にハッキリして大きな喜びに生かされる身になることができます。


人身受け難し今已に受く

仏法聞き難し今已にきく


 「生まれ難い人間に生まれられて良かった」という喜びが起きる時が必ずきます。


 皆さんも私も、その身になるまで仏教を学ばせて頂きましょう。



質問等はコメント欄にてどうぞ!(^^)





 

 こんにちは。


 年末が近づいてきましたね。ここ最近は忘年会を再開する会社等も増えてきているようですが、私の勤め先は今年もしないようでホッとしています(笑)。


 感染症を抑えるために自粛をした方が良いのか、それよりも経済を回した方が良いのか意見が分かれるところだと思います。

 


 さて今回は親鸞聖人のお弟子、唯円(ゆいえん)が書いたと言われる「歎異抄(たんにしょう)」に書き残された衝撃的な言葉を紹介いたします。


 歎異抄は18章の短文からなります。


 最初の10章は「ある時、親鸞聖人はこう仰った」と親鸞聖人のお言葉を記述されたものです。


 11章から18章までは、親鸞聖人の没後、誤った教えを言いふらすものを見過ごせなかった唯円が、泣く泣く筆をとって正したものです。


 その中に思わず耳を疑ってしまう、親鸞聖人のこんなお言葉があります。 



善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり



 このお言葉は「親鸞は、何が善で何が悪か全く分からない」と言う告白です。


 衝撃ですよね。


 「私たちですらやって良いことと悪いことの区別くらいついているのに、そんな人に教えを説くことが出来るの?」と思ってしまいますが、そういう意味の言葉ではないんです。


 この言葉はこの後こう続きます。



 そのゆえは、如来(にょらい)の御心に善しと思し召すほどに知り通したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ



 如来とは仏様のことです。


 仏様が「それは善である」とお思いになるほどに、親鸞が知りぬいていれば、善を知っているとも言えよう。


 と言われているんですね。その後にこうも続きます。



 如来の悪しと思し召すほどに知り通したらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ



 上記の「善」についての告白文と同様に、


 如来が「それは悪である」とお思いになるほどに、親鸞が知りぬいていれば、悪を知っているとも言えよう。


 と言われています。


 如来は三世十方(さんぜじっぽう)変わらない善悪を教えられる方です。


 「三世」とは「いつでも」「十方」とは「どこでも」ということです。


 如来という言葉の意味は真如(しんにょ)を体現して来られた方という意味です。


 「真如」という言葉を現代の私たちに分かりやすい言葉で言うと「大宇宙の真理」、それを分かっておられる方だからいつの時代も、どこの世界でも変わらない善悪を教えることが出来ます。


 そういう如来が分かっておられるような三世十方変わらない善悪を親鸞は分からないということを言われているんです。



 そもそも私たちの善悪の基準は時代や状況で変わってしまうものです。


 例えば昔は他国を征服してたくさん領土を増やした人が英雄として讃えられた時代もありましたが、現代では侵略者の汚名を着せられてしまいます。


 そこまで大袈裟でなくても、数年あれば世間の価値観や常識はコロッと変わってしまうことは数多くありますよね。


 もちろん親鸞聖人は世間の常識や良識は大変弁えておられる人格者でしたが、人間である以上如来が分かっておられるような三世十方変わらない善悪は分からなかったのです。


 生きていくには世間を知ることも大切ですが、三世十方変わらない真実が教えられているのが仏教ですので、皆さんにも是非仏教を学んで頂きたいです。



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 こんにちは。


 もうすぐ2021年も終わってしまいますね。今年もほぼコロナウィルスの動向に振り回されましたが、ここ最近は感染者もほぼ無く落ち着いていますね。


 このまま終息してくれることを願っています。


 こんな一難去ってまた一難、苦しみの絶えない世の中で私たちは幸せ求めて一生懸命生きていますね。


 今ならコロナ禍を抜け出してこれまでの生活に戻り、経済回復すれば幸せな世の中になると考える人も少なくないかもしれません。


 しかし仏教では有っても無くても同じ、「有無同然(うむどうぜん)」であると教えられます。


 何が有っても無くても変わらないのかというと苦しみが変わらない、不安や不満が変わらないということです。


 無い人は無いことで苦しみ、有る人は有ることで苦しんでいるのが人間の実態です。


 例えばお金が無い人は無いことでみじめな思いをしたり、暇なく働いたりして苦しみますが、反対にお金がある人は維持管理に頭を悩ませたり、お金目当てで擦り寄ってくる人が多く疑心暗鬼になったりして苦しんでいます。


 他にも地位、名誉、妻子…私たちが当て力にしている全てにおいて同じく「有無同然」で苦しんでいると言えるでしょう。


 仏教を説かれたお釈迦様は無い人は「鉄の鎖」で縛られているようなもの、有る人は「金の鎖」で縛られているようなものと教えられています。


 金であっても鉄であっても結局縛られていることに変わりないということです。


 私たち人間は勤め先や配偶者、時には自身の子供まで持ち出してマウンティングしあったりすることがありますが、それらに縛られて苦しんでいるのに変わりないことを思えば滑稽なものです。


 最も重要なお経「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」には、


「田無ければまた憂いて、

田有らんことを欲し、

宅無ければまた憂いて、

宅有らんことを欲す。

田有れば田を憂え、

宅有れば宅を憂う。

牛馬•六畜•奴婢•銭財•衣食•汁物、

また共にこれを憂う。

有無同じく然り」


 と書かれています。


 これは田んぼや家、家畜や奴隷、財産や食べ物が無い人は無いことで苦しみ、有る人は有ることで苦しんでいるということが書かれています。


 現代で言うと田んぼは家具、家畜は財産、奴隷というのは今の日本にはいませんがお手伝いさんのような存在に当たるでしょうか。


 このお経が説かれた約2600年前と比べ物にならないほど現代はモノに溢れて豊かになりましたが、苦しんで生きている人間の実態は変わっていないんですね。


 幸せ求めて世の中はどんどん発達し、便利になっているのに日本の自殺者は毎年約2万人もいます。



 ここまで「有無同然」について書いてきましたが結局何を言われているとかというと、苦しみの根源は外側にあるのではないということです。


 苦しみの根本原因は自分の心にあるんです。


 これは気の持ちようなどという浅い話ではなく、変わらない本当の幸せになれる道が仏教には明確に示されています。


 これからもそこについて色々な角度からブログを書いていきますので、皆様にもぜひ仏教に関心を持って頂きたいです。



質問等ありましたらコメント欄にてどうぞ!(^^)


 

 


 


 


 


 


 

 こんにちは。


 先日、福井県あわら市にある「吉崎御坊(よしざきごぼう)」に聴聞と観光を兼ねてきました。


 浄土真宗中興の祖である蓮如上人が北陸布教の中心拠点として選ばれた場所です。


 吉崎御坊から見える北潟湖という湖はとても綺麗で心が落ち着きました。浄土真宗に興味のある方は是非一度は行かれてみて欲しいです。



 さて皆さんは「自分を変えたいのに変われない」「人一倍努力しているのに報われない」と感じることはないでしょうか?


 私はよくあります(笑)。


 きっと多くの人が抱えている気持ちだと思いますが、期待していた結果が出ない時どのような心がけでいれば変わっていけるのかを、仏教に説かれている「因縁果(いんねんか)」の教えを通して考えてみます。


 仏教の根幹となる教えに「因果の道理(いんがのどうり)」というものがあります。


善因善果(ぜんいんぜんか)

悪因悪果(あくいんあっか)

自因自果(じいんじか)


 良い行いをすれば良い結果が現れ、悪い行いをすれば悪い結果が現れる。良いのも悪いのも自分の身に起こる結果のすべては自分の行いが生み出したものであるということです。


 これを聞いて「あれ?私は日頃の行い良くするように心がけているのに全然報われないんですけど…」と思われる方も多いのではないでしょうか?


 しかし因果の道理に例外や個人差というものはありません。たとえ他人に知られていない行いでも、自分の蒔いたタネに応じた結果が現れます。


 人は思ったような結果が中々出ないと「頑張っても報われないこともある」と考え投げやりになってしまうこともあります。こんな場合について考えてみましょう。



 仏教では因果の道理についてさらに詳しく、因と縁とが結びついて初めて結果になるのだと教えられています。


 実は因果の道理を正確には「因縁果の道理(いんねんかのどうり)」と言われて因に縁を含めて省略されたのが「因果の道理」なのです。


 お釈迦さまは因と縁がそろって初めて結果が現れる道理を「一切法(いっさいほう)は因縁生(いんねんしょう)なり」と言われています。


 「一切法」とは「すべてのもの」ということであり「因縁生」とは「因と縁が和合して生じたもの」ということです。


 つまり因と縁は片方だけあっても結果は現れません。両方が合わさってすべてのものは成立しているのです。


 日本の説法では因と縁の関係をよくお米にたとえて話されます。


 米の「因」にあたるのはモミダネです。モミダネは米の種ですから、まずはこれがないと米は絶対にできません。


 しかしモミダネさえあれば勝手に米になる訳ではなく、土や水や太陽の光といった「縁」が揃って初めて「米」という結果が実るのです。


 「因」と「縁」のどちらか一方が変わっても結果は変わります。


 モミダネの品種が違えば収穫できる米は変わりますし、同じ品種でも縁である土や水、気候やその年の気象状態が変われば米の味は変わります。


 この米の「縁」のたとえのように、人間も身を置く場所や付き合う人を変えることで結果は変わります。


 私たちの運命という結果は、「因」は「行い」のことであり、「縁」は周りの環境や人のことです。


 つまりより良い環境や自分にあった場所で良い行いを積み重ねれば、良い結果が出やすくなります。


 身近な例として私たちの働く職場を挙げると、良い環境、良い上司や同僚のいる職場で頑張って働けばよい働きができますが、俗に言うブラック企業のような環境ならいくら自分自身が努力しても良い結果にすることは難しいでしょう。


 どんな環境を選び、どんな人と付き合うかという「縁」はそれだけ大切なのです。


 

 「自分は頑張って行いを良くするように心がけているけれど、中々思うように報われない」と感じることもあるでしょう。


 しかし残念に思う必要はありません。


 今一生懸命タネをまいても花が咲かないのは、まだ花が咲く縁が来ていないだけなのです。


 花は冬の間水や栄養を吸収し根を下に下に伸ばして、春の陽気という縁が来た時に花開きます。


 思うような結果が出ない時こそ腐らず良い種をまいていけば、縁がそろった時により素晴らしい結果となって返ってきます。


 私たちは目先の成果が出ないと焦ったり諦めたりしていまいがちですが、そこで踏ん張るとやがて幸せな結果が実を結ぶものです。


 人生には色々な縁があり、それには選べるものもそうでないものもあります。


 良い縁を選ぶことも大事ですが、同時にどんな環境でも良い種まきに心がけることが幸せな人生にする秘訣と言えるでしょう。



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 こんにちは。

 岸田内閣が発足しましたね。コロナ対応や経済政策など世の中不安いっぱいですが、どのような政治をしてくれるのか気になりますね。   


 何が起こるか分からない世の中で、不安を解消して安らかに生きる方法が教えられているのが仏教ですが、不安の正体は何と教えられていると思いますか? 

 

 それは「信心(しんじん)」何かを信じる心が不安の始まりだと教えられているんです。


 意外だと思いませんか?


 一般的にほとんどの宗教では神や仏、またはそれに近い存在を「信じなさい」と教えますから、これは他宗教とは異なる仏教の大きな特徴です。


 「信心」と言うと、何か特定の宗教で神や仏を信じることだと思っている方が多いと思いますが、それだけではないんです。


 神や仏に限らず心で何かを信じていれば、それがその人にとっての信心なんです。


 私たちは何かを信じて、頼りにして支えにしなければ生きていけませんから、信心がない人はいません。


 家族においては夫は妻を信じ、妻は夫を信じて生きています。子供がいれば親は子を、子は親を信じるでしょう。


 友人同士もお互い信頼できるところがあるから友人でいられる訳です。


 あるいは「人間なんか信用できない。当てになるのはお金だけだ」と言っている人は、人は信じていなくてもお金を信じて頼りにして生きていますから、やはりこれも信心です。


 また「私は何も信じない。人も金も世の中も自分自身も、信じられるものは何もない。全ては無意味だ」と言っている人でも、少なくともその人は「何も信じられるものはない」という思想を信じていることになりますから、どんな人でも信心はある訳です。


 その信じていたものに裏切られた時、私たちは苦しみます。


 信頼していた配偶者に浮気されてショックを受けて苦しんでいる人はたくさんいますが、信じる気持ちや好意が大きければ大きいほど、その悲しみや怒りは大きいものです。


 逆に配偶者であってもそこまで信じていない、仲も悪いし頼りにもしていないという状態だと、そこまで苦しまないんです。


 つまり信じる気持ちの大小が、裏切られた時の苦しみの大小と比例するということです。


 私たちは人それぞれ何かしらを命として信じています。


 それは自分の子供という人もいれば、健康という人もいれば、金という人もいますがそれに裏切られた時、大変な苦しみを受けるんですね。


 皆さんは、この世に絶対に裏切らないものはあると思われますか?



 仏教では無いと断言されています。


 これを世間でも有名な言葉ですが「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と言います。


 「諸行」とは「すべてのもの」ということで「無常」とは「常が無い、続かない」ということです。


 この世の一切は無常なのに、つい私たちは無常を常と思い込んでしまうので裏切られて苦しむのです。


 皆、実は心の奥底ではこれを分かっているので、「この幸せがいつまで続くんだろう」と苦しみが未来に待ち構えているのを予感して不安になります。


 何か信じるものができて、それが強ければ強いほど不安の始まりとなります。


 幸せを手に入れても「いつこの幸せに裏切られるだろうか、その時自分は立ち直れるだろうか」という不安に襲われます。


 ならば何も信じずに期待せずに生きていけばいいのかというと、それもまた虚しくつまらないものです。


 いずれにおいても人は苦しんでいるという実態を徹底的に教えられているのが仏教の教えです。


 その上でそんな私たちが本当の幸せになれる道を仏教では示されていますので、皆さんにも是非仏教を学んでいただきたいです。



質問等あればコメント欄にてどうぞ!(^^)