http://ameblo.jp/turtlehaze/entry-10444707790.html の続き


ときに「髪結いの亭主」とはうまいことを言ったものだ。


細君が労働力になり得ると知りえた刹那より、亭主は「将棋指し」のような「非労働行為」に転ずる。

細君が勤労し、亭主が相反する作業を日常とすれば、差し引きゼロ、または、その均衡が打ち破られた場合は「裕福」もしくは「貧乏」となる。

人間の文化的生活危うげなること、この上なしである。


しかし、日の本の憲法によって保証された「文化的生活」というのは、労働することにより発生する「納税の義務」を完遂した者にのみ与えられたし権限で、髪結いの亭主などは、端から、その義務をば放棄しているのだからして、そのような権限など与えられようはずがない。


それでも亭主は生きている。なんとすれば、見地を変ずると、憲法下よりはじかれた人物であり、または自ら外側に出て行ってしまった傑物、すなわち、最大のエクスキューズをして、「アナーキスト」と言えなくもない。イギリスのパンク歌手宜しく「俺は反キリスト主義者で、アナーキストだ」と嘯くも悪くはない。


だけれども、「国家という概念」は、髪結いの亭主が考えるほど甘くはなく、ここは日の本、仏教国、ひとたび、親類縁者など死んだりすると、やれ、通夜だ、葬式だ、香典返しだ、寿司取れ寿司、ビール足りんぞ、などと様々な出費が怒涛に押し寄せ、さらには消費税も支払わされる。


ここで、亭主は初めて「自分はアンチ・キリストだけれども、葬式は寺で挙げなくてはならん、さすれば、その出費は如何に?」と己の所有財産と向き合わざるを得なくなる。

葬儀屋は手前勝手で、「はい、松竹梅、いかがいたしましょう? まさか梅ということはないですよね」と恫喝するから、亭主、たまったものではない。

つい、つられて、最高級の「松」になどしようものならば、高額請求書が後から後から送られてくる。

恨むべきはアナーキストな己と「葬式仏教」。


亭主思う。

「ああ、俺はバリ・ヒンズー教徒に生まれたかった」


しかし、極楽バリも今やモスリム・フォンディメンタリストたちによる自爆テロの恐怖が蔓延している。


いかで、何処へいかん。


ランボーの如き心境に立ち至るものの、行くあてなどなく、「えー、ローンで宜しく」と葬儀屋に頼むばかりなり。

葬儀屋受けて「あい、わかりやした」と、かねて用意の信販会社の申し込み書にサインと捺印をばせよ、と言う。「了解の由」亭主、判子押すが、何卒、定職なき様子にて、あえなく却下され、この際、女房の銀行口座を用いると、すんなりローンの許可が下りるという寸法である。


私もそんな状態である。

実際、今夏、新規にクレジット・カードを作成しようと試みたが、蜩鳴いても許可おりず、妻の名義で申し込んだら、あっという間にカードが届いた。