「底つき体験」という慈悲。 | しいたけ。のブログ

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夫 大芋(2011年生 女)小芋(2013年生 男)の四人家族。
ドタバタな日々に、元々の鳥頭(3歩歩けば忘れる)が絶賛進行中。
ホ・オポノポノのクリーニングで自由の感覚を日々上書き中。
イラスト描いたりクリーニングして引きこもりライフ満喫中です。

こんにちは。
イラストレーターしいたけです。







※今日のはちょい重め暗め超長めの上に
身内話がほとんどです。

苦手な方はまた今度ね(^^)












「底つき体験」という言葉があります。

主に依存症(特にアルコール依存症)の
治療の現場で使われることが多い言葉です。



こちらのサイトによると


生活が破綻し、家族からも見放され
絶望の淵に沈みこんでうちひしがれる。

これを「底つき体験」といい
「落ちるとこまで落ちている」という状態。

と書いてあります。


また他のサイトなどでは

「自分自身の努力では
どうにもならなくなった」
という“意識”が芽生えること

とも書かれていました。


依存症克服に必要なプロセスとも言われますが
近年は他のアプローチ、手法も
用いられているようです。

ただ底つき体験に必ずついてくるのが
家族の強い決意が必須ということ。

患者の依存を世間体から隠蔽していたり
一時的な平穏を得るために
患者の甘えを易々と聞き入れたり
見てみぬ振りをしたりするのをやめ

家族も底を見る決意をすること。







私の父は、ギャンブル依存でした。
特に賭け麻雀に目がなかったそうです。

仕事も長続きせず職を転々としました。
もちろん夫婦仲は最悪。

そのうちに借りちゃあかんとこに借金し
督促の電話がかかってくるようになりました。

当時はサラ金が社会問題となっていて
督促の電話が数回かかってきた時点で
震え上がった母は私と妹を連れて昼逃げし
東京の実家に身を寄せました。

その後、晴れて離婚。




それから父と会うことはなく
最後に会ったのは、父の亡骸とでした。

父が吐血し急死したあと
父の妹が必死で私たちを見つけ出し
知らせてくれたのです。


警察と共に赴いた父の部屋。

こざっぱりと片付いた小さな2K。

小鍋の中には美味しそうに煮えた大根。
(すでにフワフワのカビが生えてましたが)

数は少ないけど、きちんと手入れされ
整頓されていたキッチンツール。

ベランダのミニバラの鉢には
栄養剤のスポイトが刺さっていて
バラはまだ生き生きと咲いていました。

アルバムの中には多分キャバクラの
若いおねーちゃんとのツーショット写真。




妻と娘が突然いなくなり
父がその後、どういう人生を送ったのか
そんなこともちろん分かりませんが

心にガチガチのモビルスーツを装着してた
当時の私でさえも、父の部屋を見て
ふっと心がほころんだのを思い出します。




父は家族との縁が薄かったそうです。

母も父の実家には一回行っただけで
あとは全く交流がなかったと話してました。




思うに父は
幸せになるのが怖かった人かもしれない。



せっかく仕事がうまくいきかけても
突然辞めてしまう。

もう麻雀は止めると本気で言っても
気付けば牌を並べている。



妻と娘が去ったあと、父の中には
絶望と共に
もう失うことを恐れなくてもいいという
深い安堵があったのかもしれない。

もう失ってしまったんだから。




切なく求めていた
家族という幸せを失ったことで
父が依存から脱却したのは
皮肉といや皮肉ですが


それでもあの、ささやかだけど
丁寧な暮らしに満ちていた部屋。


父が家族も仕事も何もかも失ったこと
恐らく深い闇と孤独と修羅場を通ったこと

それを思ってもなお
起こったこと全ては慈悲なのだな、
と思うのです。



底につくという自覚のないままに
ずるずると堕ちていき

命を失ったり
悲劇的な状況が深まる人を
何人か見てきました。




それでも。



慈悲なのだろうな。
と思う。










過去にも書いた、叔母とその家族ですが

全て望み通り。自分のプロセス、人のプロセス。

数十年もの間、叔母が一人で

世話をし、話を聞き、衣食住サポートし
日常の些末な雑事は一手に担い
孤軍奮闘しながら維持してきた家族が

どうやら崩壊への
カウントダウンが始まったようです。


とっくに破綻していたのは明らかだけど
叔母はずっと目を背け続けてきた。

ここまで家族という形態を保ってきたのが
正直、驚きであると同時に
最後の分水嶺はとっくに過ぎていたという
痛ましい思いもあります。


もう、自立は不可能なほど
たくさんのものを積み上げすぎた。
補修すればするほど
重さは増すばかりだった。

傷を晒すことなく蓋をし続け
膿が溜まり熱を持っている。



叔母一家を思う時、最初の時期は
何か介入したい気持ち
自分のアドバイスで変えたい気持ちで
結構苦しかった。

自分の癒しが進んできたら
何とかしたいという気持ちがなくなり
プロセスの一つなのだと思うようになった。

そして今、叔母一家を思うと同時に
父が過ごしたあの部屋が浮かびます。

もちろん将来の可能性は無数にある。

ある一点では絶望もあるかもしれないし
それがどこに繋がるかは誰にも分からない。


それでも父の部屋のイメージは
今までの私にはなかった
ある種の強さをくれたような気がします。



あの部屋で、暮らしていてくれて

あの部屋を、私に見せてくれて

ありがとう、お父さん。



父のエネルギーが離れて初めて
こんな風に思うことが出来ました。








ここまで読んで頂いた奇特な方、

本当にありがとうございました!