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雨降り散歩♪ ~빗속의 산책~

韓国語の勉強とか日韓関係とか、日々の考えたこととかを書いていく予定です。
한국어 공부나 한일관계나 날마다 생각한 쓸데없는 이야기들이나, 마음대로 그냥 써 가는 예정.

セウォル号の沈没事故が発生してからもうすぐ2か月が過ぎようとしています。
この間、韓国ではとてもたくさんの報道、そしてさまざまな観点からの論評がありました。
社会的にも多くの影響を与えてきました。

でも何かこのあいだの事件をめぐる「騒ぎ」について違和感を感じていました。
どこか事故の責任追及の姿勢が他人事であり、それを自分の問題としてもとらえよう、という姿勢が不足しているのではないかと思わせるようなものが多かったのです。

ぼくが感じていた違和感に近いことを、もっと深く、そしてもっとうまく言葉にしてくれている論評を見つけました。
韓国に住む歴史学者・藤井たけしさんがハンギョレ新聞に載せたものです。→記事

セウォル号、檀園高、清海鎮海運のような固有名詞を際立たせることは、あたかもそれらを記憶するための作業であるかのように見えて、実は忘却のための準備段階と見なければならない。

私たちが記憶しなければならないのは死んだ者たちだけではなく彼らの死を見ながら感じた私たち自身の崩壊感である。


とても刺激的で考えさせられる言葉だと思います。

残念ながら新聞社のサイトで日本語訳がないようなので、拙いながら全文を翻訳してみました。
間違っているところなどがあったらご指摘していただければ幸いです。


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【世相を読む】止まった歳月(セウォル)、流れる時間 / 藤井たけし

4月中旬以降憂鬱に過ごした時間がぐっと増えた。本心をあらわにしたこの社会の権力層の「体たらく」もその原因ではあるが、ただ「あの人たち」が問題ならば怒ってののしればよいことであって、実際に憂鬱になることもない。ところがずっと心が重い理由は「あの人たち」だけが問題ではないためである。私をしきりに憂鬱にさせるのは何事もなかったかのように無心に流れていく「日常の時間」であり、何よりもそこに私も加担しているという事実だ。この社会全体を揺るがした事件が起こっても、私は講義計画書にある通り講義を進めた。もちろんこの事件について話はしたが、それはどこまでも付加的なことであった。週末にも別途に追慕の時間を持つこともなく、講義の準備をしたり締め切り間近の文章などを書きながら過ごした。沈んだ歳月(セウォル)は私をずっとつかんで立ち止まらせようとしていたが、私は予定された日常の時間が事故なく流れるよう忙しく過ごした。

時給でなく分給をもらって働きもするこの社会で、権力は「だまってじっとしていろ」とだけは言わない。権力は私たちが日常のなかでじっとしていることを決して望まない。いや、むしろ恐れる。資本家でも政治家でも私たちの活動に寄生する者たちは私たちが立ち止まることを何よりも恐れている。彼らの一次的な命令は「じっとするな」だ。5月初めに大統領まででてきて消費をあおったのも私たちが消費者として比較的しずかだったからである。私たちの暮らしのすべての部分を飲み込んでしまった資本主義体制は、それほど私たちの暮らしにももたれかかっている。私たち皆が憂鬱症にはまり込んでいたらこの体制は回っていけない。だから権力の焦眉の関心事は、おとなしくしていてはならない領域とおとなしくしていなければならない領域を分けて調節することになる。

この事件を「セウォル号」という固有名詞で呼ぶことの危険性はここに生じる。私を含め大部分の人たちがセウォル号という船自体とはほとんど関係がないためである。セウォル号、檀園高、清海鎮海運のような固有名詞を際立たせることは、あたかもそれらを記憶するための作業であるかのように見えて、実は忘却のための準備段階と見なければならない。大統領府のスポークスマンの口から出る「純粋な遺族」という言葉が端的に示してくれるように、いまこの社会を維持しようとする者たちがねらうのはまずこの問題を特定少数者の問題に限定し、残りの者たちを「日常」へと復帰させることである。それさえ成功すればあとのことはそれこそ時間が解決してくれる。

いま私たちに必要なのはこのような「固有名詞化」に抵抗しながら記憶することだ。そのために固有名詞をとってこの事件を「4.16」と呼ぶのも一つの方法でありうるだろう。「4.16」という時間は決して「彼ら」だけの時間ではなかった。その衝撃に日常が壊れるなかで私たち皆が当事者になった。私たちはセウォル号を共有しなかったが「4.16」は明らかに共有した。私たちが記憶しなければならないのは死んだ者たちだけではなく彼らの死を見ながら感じた私たち自身の崩壊感である。その暗澹たる心情、悲しみ、怒りが「4.16」だ。

私を含めて少なくない人たちが感じた憂鬱感は身体のなかにある「4.16」が流れる時間に抵抗するところで生じる。だからこの憂鬱症は簡単には治らないだろうし簡単に治癒されてもならない。誰かさんは忘却を要求するだろうが、そうするほど私たちの憂鬱症はより深いところに行方をくらますだけである。2014年4月16日がふたたび戻ってくることはないが、16日はひと月に1回、4月は1年に1回かならずめぐってくる。時間は流れても止まった歳月(セウォル)はまためぐってくる。「4.16」は過去に対する記憶であると同時に未来に対する約束なのだから。