宗教は一般世界とは違う、区別される点はどこにあるのだろうか。まず、神や教義、儀式といった神秘主義的傾向が一番先に考えられるだろう。しかし、これは少し動機付けが弱い。概念自体は、いくらでも切り替えられるし、また一般人にあまり受け入れられるものではない。
 
 やはり一番の違いは「苦行」、「禁欲」といった部分に宗教の本質があるように思える。例を挙げれば、6年間の苦行と思索・瞑想にふけり、悟りに達した釈迦や、40日の断食、拷問や十字架刑を受けたイエス・キリストなど、世界的な宗教の開祖は、ほとんど禁欲的な生活を自ら課している。もし、仮にイエスが、大食いで太っていたら?釈迦が煩悩まみれ立ったら?そう考えるだけで、本人の評価だけでなく、宗教自体成立しなかったことは自明である。

 いくら弁が立ち、神秘や奇跡を披露したとしても、この「禁欲」がなければ宗教は成立しない。それではなぜ宗教に禁欲が必要なのだろうか。

 そもそも宗教は純粋な意思や内面である、「精神」が中心であるのに対し、我々に限らず動物は「欲求」にしたがって行動する。そもそも進化論の立場から見れば、生存競争を勝ち抜く上でこの「欲求」は原動力であるにもかかわらず、なぜそれらを衰退させる純粋な意思や内面的部分を純化させる必要があるのだろうか。

 思うに、この精神を純化させることは決して、「生きる」という欲求を衰退させるものではない。一見すると、食欲を絶つことで、餓死するのではないかといった危険が生じるのは確かである。しかし、なぜ生きるのかという「理性」を持つ人間にとっては、目先の欲求よりもはるかに重要な命題が存在する。その答えが見出せない限り、人間は生存競争を勝ち抜くことはできない。

 現代では、合理性や客観性が重視されすぎたあまり、この「存在」について「実存」といった曖昧な概念でお茶を濁しているが、このままでは人間はこの先の生存競争を生き抜くことはできないだろう。個々が本質存在としての、確固たる信念を持ち、道徳的レベルを高め、個々の純粋意識を高めていかなければ、その先に待つものは衰退のみである。