平成6年5月5日の夕方 あなたはとても慌しく
わたしのもとに還ってきてくれたね
5月5日が誕生日って言ったら、みんなどんな反応する?って次男に聞くと
誕生日が休日でいいな~とか、男やから3月3日じゃなくて良かったなとか
男の子をちょうど5月5日に産むなんて、お母さんすごい!って言われへん?
それは無いけど母親が1月1日で俺が5月5日やって言ったらみんな驚くで・・・
ぞろ目の誕生日の親にぞろ目誕生日の子ども
それも男の子を5月5日に産むなんて
確率で言うとどのくらいなんだろう
でも、もっと驚く奇跡が5月5日に起こった
そのことをどうしても二十歳を迎えた貴方(次男)に知ってもらいたくて
今この文章を書いています
長男を産が産まれて翌年、次の妊娠の兆候が表れた
旦那に話すと
「もしそうやったら年子やんか、忙しくなるなー」嬉しそうに笑った
長男の時は無機質な国立病院(現在は医療センター)での出産
今度はママ友から聞いてた
おしゃれで設備のゆきとどいた個人病院・・と思っていたわたしは
さっそく、お目当ての病院にウキウキ気分で出かけて行った
でも、診察が終わり医師から聞かされた言葉は
「妊娠はしているますがお腹の中の赤ちゃんはほとんど育っていません
もう少し様子を見るが何かあったらすぐ入院です」だった
・・・そして不安はカタチとなり
その数日後から出血が始まった
長男の時も初期に大量出血、結石、早産・・・と
何度も危機を迎えたけどちゃんと産まれてきてくれた
だから今度も絶対大丈夫!不安な気持ちを打ち消した
どこの病院に助けを求めよう
いろいろ考えた結果
そのころ住んでいた家からも近く
長男を無事に産ませてくれたという信頼もあり
国立病院の休日診療に駆け込んだ
世間はG.Wで賑わう5月5日
救急外来で診察の後、すぐに入院
流産を止める点滴で繋がれ
ベッドから立ち上がることも一切禁止の絶対安静を言い渡された
何で子どもの日にこんなことに
長男の2回目の節句を祝ってやることもできないなんて・・
真夜中の産婦人科病棟
床灯台だけの薄明かりの中
・・・それでも、
寝返りを打つだけで赤ちゃんはどんどん流れてゆく
自分ではどうすることもできない歯がゆい現実
時間だけが冷たく残酷に流れていった
翌日は流産の処置、翌々日に退院
退院の日は
めまぐるしく過ぎて行った、G・Wの最終日と重なった
唯一救いだったのは、
幼い長男をG・W中だった旦那が面倒見たくれたことと
旦那の休日が終わるまでにわたしが退院できたこと・・だった
流産なんて人の話ではよく聞いていたけど
実際自分の身に起こるなんて
妊娠かも?と思いながらも
長男を抱いて爆走したこと、体調が悪いのに無理に出かけたこと
仮に、妊娠していたとしても
長男の時は大丈夫だったから今度もきっと大丈夫と
自分の都合のいいように過信してしまったこと
後悔ばかりが頭の中に浮かんでは消えた
出産を経験した人の方が
流産のダメージが大きいと
何かで聞いたことがあるけど確かにそうだと思う
産まれていれば受けられるはずの光
愛や優しさ祝福
親としての成長の喜び
それらがどんなものか身を以て知っているだけに
誰にも知られることなく居なくなってしまった命があまりにも哀れで
ちゃんと産んであげられなかった自分を責めた
退院したその日から
忘れてないよ、家のご飯みんなで一緒に食べようね
そんな気持ちを込めて陰膳を作り始めた
誰も手を付けない皿を幼い長男が不思議そうに指差す
「お母ちゃんのしたいようにさせたり」
長男に優しく言い聞かせる旦那
「子どもにそれだけの力がなかったのかも知れへんで」
「俺は男やからお前の気持ち理解しきれへんけど、あんまり考えすぎるな」
旦那は、いろんな言葉でわたしを慰めてくれたけど
わたしの心が晴れることはなかった
そんなある日、実父から一本の電話がかかってきた
それはわたしをもっと深い暗闇に落とす始まりでもあった
「1万円貸してくれへんか?」
電話をかけてきた父との会話はこんな言葉から始まった
わたしが流産して入院してたことも知っているのに
いたわる気持ちなどカケラも無いようだ
ギャンブル好きで
自分の思い通りにならないとすぐ暴力をふるう
結婚する前から何度泣かされたことか
3か月も入院している娘の病室に
平気でお金をせびりに来るような・・・そんな人
「1時間後にお前の近くの駅に行くから」
そう言って電話は切れた
お金を渡さなければ
悪態に暴言、嫌がらせ、もしかしたら暴力も・・・
でも、入院費を払った上に給料前
手持ちのお金はほとんど無かった
かといって貯金を下ろしてまで渡すのは絶対嫌だった
家中のお金を探した
千円札
500円玉
100円玉
10円玉
なけなしのお金をかき集めた1万円
じゃら銭まじりの1万円
封筒にそれを入れて長男と駅に向かった
父はもう駅の前で待っていた
長男の頭を撫でるでもなく声をかけるでもなく
封筒を手にすると無言で駅舎の中に消えて行った
そのあと、長男と公園に寄った
無邪気に遊ぶ長男の姿をぼーっと眺めながら考える
じゃら銭まじりの、1万円
それは、わたしができた精一杯の抵抗
だって、旦那とわたしと長男の大切なお金なんだ
簡単には渡したくなかった
悔しかった、ただ悔しかった
そして・・涙がぽろり、ぽろり・・と流れた
家に帰り玄関を開けようとしたら電話が鳴っていた
長男の靴を脱がせて慌てて出ようとしたが
呼び出し音は唐突にブチっと切れた
多分父だ・・・
きっと、もう何回もかけてきてたのだろう
苛立ちが電話の切れ方で判った
そんなことを考えているうちに、また電話が鳴った
「もしもし・・・」とわたし
「お前俺を ナメとんのかー!!!」
「・・・」いきなり大声で怒鳴られ何も言えない
「人を馬鹿にしやがって
覚えとけよ お前の家庭をメチャクチャにしたるからな!!」
言いたいことだけ言って電話は切れた
あのままでは多分済まないだろうとは思っていたけど
小さな抵抗の代償とはいえ
実の親がここまで言うのか・・・言えるのか
親なら自分の子や孫のの幸せを願うものじゃないの?
それを反対に家庭をメチャクチャにしてやるなんて・・
一体、何をする気なんだろう
旦那名義で借金するとか?
まだ幼い長男に危害をあたえるとか?
・・まさか、家に火でもつけるつもり?
次から次へと悪い妄想は膨らんでゆく
嫌だ!! こわい 怖い 恐い
思わず長男を抱きしめた
こんな人間が自分の親だなんて
誰にも言えなかったし
誰にも知られたくなかった
仕事から帰ってきた旦那をいつも以上の明るい笑顔で迎えた
だってその事を1番知られたくない人は旦那だったから
笑顔とは裏腹にわたしの心の中には暗闇と嵐が混在していた
真夜中の病室カーテン越しの暗い灯りどんどん流れてゆく赤い塊
父が長男を刺す夢を見て飛び起きる 恐怖、憤り、イカリ
そんな時間を何回か繰り返しながら
わたしの体調はみるみるおかしくなっていった
結果的に実父に危害を受けることは無かった
所詮、小悪党そんな大きなことができる人ではなかったのか
父にとってわたしは金ずる、失う方が損だ思ったのかもしれない
でも、流産でお腹の子を失い
長男まで父に奪われてしまうのではないかという危機感
それはかなりのストレスだったことは確かだったに違いない
症状は24時間つねに空腹感を感じることから始まった
食べるたびに自分でもびっくりする程の量を食べないと満足できなかった
食べ終わった後、
またこんなにたくさん食べてしまった・・・と後悔するけど
たくさん食べて血値が上がっている時だけ
血糖値が上がると身体も心も ほわぁ~っ となって
不安や怒り憤り・・・さまざまなストレスから解放される気がして
どうしてもやめることができなかった
その時はそれが糖尿病の発症だとは気が付かず
色々なストレスでおかしくなってるのかな?程度にしか思っていなかった
でも、この発病はわたしの人生にとって大きな不幸
後に初めて糖尿病を診断した医師の言葉をそのまま書くと
「あなたこんなに若く発病して、これから本当に苦労しますよ」
あれからかれこれ20年・・・全くその通りになっている
父のことはともかくとして
流産のダメージはからはなかなか抜け出すことができず
旦那と水子供養のお寺にも何度かお参りに行った
水子・・・暗いところで永遠に泣き続ける幼子
なまじ、幽霊を感じたり見ることのできるわたしにとって
自分には水子がいる、そう思うたびに
居ても立っても居られないような気持になった
そうして思い悩むうちに
ある日わたしは全てが幸せになれる最高の解決法思いついた
それは
お腹からいなくなってしまった赤ちゃんをもう1度妊娠、出産して
陽の当たる場所で抱きしめること
題して、希望の光計画
それからのわたしは陰膳も止め
希望の光計画遂行のため前を見て進んでいった
次の妊娠には流産から、1年は置いたほうが良い
そんなことを誰かから聞いたので翌年からのチャレンジ
長男の時も流産の時もすぐ妊娠したので
今回もすぐのことだと思っていたけど
なかなか妊娠の兆候は表れないまま1年が過ぎた
次の1年は基礎体温を付けて時期を合わせてみたが
やっぱり駄目
流産のダメージでもう妊娠できなくなってしまったのかも知れない
あの日から3年・・・
希望の光計画は暗礁に乗り上げた
第一、もし仮に妊娠、出産したとして
流産した子かどうかなんてどうしたら判るの?
その頃になってやっとそんなことに気付く
自分のバカさ加減んに少し笑えた
でも、希望の光計画のおかげでわたしは前を向き歩き出すことができた
それだけでも良かったのではないか
そんな風に思えるようになっていた
今思えば、滑稽で無謀な計画でも
迷路のような悲しみや自分を責める後悔の念から
抜け出し楽になるための
脳からの指令・・・自己防衛が働いたのではないかと・・
肩の力を抜いたことが良かったのか
流産から3年目の秋にようやく妊娠の兆候が現われた
長男を産んだ病院と流産の処置を受けた病院は一緒
でも、流産のイメージが強くその病院には行く気になれなかった
親戚の出産のお祝いで訪れた大きな公立の病院
その時が来たら
今度はあの病院で産もう!そう決めていた
検査と診察が終わり医師と向き合う「血糖値が高すぎますね・・・」
今になってあの時発病したんだろうなと判るけれど
その時のわたしには寝耳に水
うして、また新たな苦悩がはじまった。。。
胎児の体が作られる妊娠初期から高血糖状態だったため
胎児の手・足や心臓に奇形の可能性が非常に高く
わたし自身も糖尿病のため
妊娠中毒症やほかの異変が起こりやすく
妊娠を継続できる可能性はかなり低い
胎児が大きくなると処置が大変なので
妊娠3か月までには結論を出して病院に来てください
言葉はオブラートに包まれて優しかったが
要は 堕胎 の勧告
せっかく妊娠できたのに
また、お腹の赤ちゃんを失なわなければいけないなんて
それもわたしの病気のせいで
どうしよう・・
100%奇形や病気の子が生まれてくるとは
断言できないとも言っていたけど
もしそんな子が生まれてきたらわたしにちゃんと育てられるのだろうか
その子が物心ついた時どう説明すればいいのだろうか
だからと言って、可能性が高いと言うだけで
赤ちゃんが健康体だったら
あれだけ望んでいた赤ちゃんを殺してしまうことになる
いろいろなことを毎日毎日考えた
もし、赤ちゃんをおろすとしたら
バスに乗り電車に乗り病院に行き診察券を出す
簡単な事だ・・・あとは流れに任せればいい
初めてしまえばきっとあっという間に終わる
そうすればこの苦悩から解放される
産むとしたらこの苦しみが産まれるまで続くことになる
そして、もしかしたらその後も・・
わたしにとって、どっちが楽かは明らかだ
けれど身体は動かない
産もうと言う結論も出せないのに
おろすという行動にも出られないまま
あっという間にタイムリミットの3か月が過ぎた
もちろん旦那とも何度も話し合ったが
「絶対にそんな子が産まれてくるわけやないんやろ」
と言うばかり
その時はその言葉の意味がよく解らなかった
でも、後になって あーそうだったのか と分かることになるんだけど
それはまだまだ先の話し
無理をすれば5か月目ぐらいまでは
堕胎できるようだけど
その頃はそんな知識もなかったので
3か月を過ぎた時点で、もう絶対おろすことはできない
産むしかないんだと思い始めると不思議と肝が据わった
とにかくすぐどこかの産婦人科に行って
診察を受けなきゃ
わたしにも赤ちゃんにも問題があるのだから
急変があったときすぐ行ける近くで
どんなことにも対応してくれる大きい病院
選択肢は公立病院か国立病院かの二つ
でもさすがに
堕胎をすすめられた公立病院は行く気になれなかった
残るのは国立病院・・やっぱり国立か
でも改めて考えたら
長男の時も初期に大量出血、中期に尿路結石
後期は早産になりかけたりと、大変なお産だったけど
ちゃんと産まれてきてくれた
今、このお腹の中にる赤ちゃんも
同じ病院、同じ医師にとりあげて貰えたら
長男の時と同じように元気に産まれてきてくれるのではないか・・
そんな考えが頭の中に浮かんだ
「そうだ!国立病院でW先生にお腹の子を散りあげて貰うんだ
そうすれば何もかも上手くいくはず!!」
考えれば考えるほど思いこみは確信へと変わっていった
それでも先のことを考えると怖気づき
結局、病院に行けたのは5か月目に入った頃だった
ひと通りの問診と診察を終えると
W医師の(長男を取り上げてくれた医師)
表情は険しく・・・冷たいものになった
確かに病院や医師からしたら迷惑この上ない
こんなリスクの高い患者が
もう産むしかないという状態で突然現われたのだから
でも、40代で母が糖尿になり
親戚5人寄れば3人は糖尿病
そんな家系に生まれたわたしでも
糖尿病が妊娠に与える影響が
こんなに怖いものだなんて全く知らなかったし
誰も教えてくれなかった
とにかく即入院
糖の負荷検査
24時間の血糖測定
お腹のエコー検査 等々
たくさんの検査を受けた
ひと通りの検査を終えると
自分で血糖を測る機械を渡され退院
目標は、空腹時 65~70
食後 160~180
妊娠時の血糖管理は
普通の状態より目標数値設定が厳しい
こうしてわたしの血糖値との闘いの日が始まった
慣れない血糖コントロール
食事後、じっとしていて
血糖値が上がることが怖くて怖くて
1日中用事を探しては動き回る・・・そんな毎日で
なんと4週間で10キロ近く体重が落ちた
反対に急激に体重を落としたことで
赤ちゃんに悪影響があるにでは?と
心配したほどだった
でも別に体重が減ったからといって
病気が軽くなったり、ましてや治ったわけではなく
あい変わらす気の抜けない日々
産まれてくる子どもへの不安と
慣れない生活のストレスで
時々心が折れそうになったけど
産まれるまでは
とにかく頑張ろうと自分に言い聞かせ続けた
それにもしかしたら
産み終わったら糖尿病も治るかも・・・
なんてありえない希望も考えたりした
(そんな人も時々居るらしい)
妊娠中に限らず
高血糖より低血糖の方が怖いと
よく医師に言われるけれど
そんな知識もなかったその頃のわたしは
カレーライスとかオムライスとかを食べると
予想以上に血糖値が上がり
大変だ!といつも以上に動き回っていると
急に体が震えたり気分が悪くなったりして
慌てて血糖値を測ると
Lo(低血糖状態)になることを度々起こした
そのことを検診時、W医師に話すと
「だから糖尿の人は嫌いなんや!!」と大声で怒鳴られ
そして、低血糖がお腹の子に与える
ダメージの大きさを教えられた
そして、病気じゃなかったら
普通に身体がコントロールしてくれることを
もうわたしはできなくなってしまったんだな・・・と
落胆した
藁にもすがるような思いで通い始めた
この国立病院はとにかく患者が多く
医師の前に今診察している患者
そのすぐ後ろに次の患者
そのまた後ろに次の次の患者と
プライバシーなんて全くなかった
(あの当時はそれでも誰も文句なんて言えなかった)
普通の妊婦ならまだしも
いろいろなリスクを抱え通院するわたしには
時としてそこはとても辛い試練の場となった
エコーの画面を見ながらW医師が
「手は付いているみたいやけど
ちゃんと動くかどうか判らへんで」とか
「心臓の奇形が一番怖いんや、お腹の中で動いていても
外に出た途端動かなくなるかも知れへん」とか
診察室でも同じようなことを何度も言われた
診察待ちですぐ後ろに座っている人にも丸聞こえ
これが、医師の勧めない
高リスクのお産をしようとするわたしのバツ(罪)なのか
そのツミ(罰)を誰かに聞かれることはとても苦痛だった
もっと優しい言葉をかけてくれる
お医者さんがいる病院に変わりたい何度もそう考えたけど
逃げないで頑張らなければ
願は叶えられないような気がして病院を変わることができなかった
診察日はいつも帰ってきてから泣いた
そのことを知っている旦那は
診察のあった日はいつも
心配して仕事場から電話をかけてきてくれた
きっと旦那は思い余って・・・
なんて心配していたのかもしれないけど
その頃幼稚園児だった長男のお迎えが午後2時
それまでには泣き止んでお迎えに行き
長男のお友達が
遊びに来たいと言えば家に来てもらい
長男が遊びに行きたいと言えば
お願して、夕方にはそのお宅に迎えに行く
そんな感じで毎日がとても忙しく
また、血糖値が上がるのが怖くて
とにかく常に身体を動かすこと第一で
夜は疲れ切って
長男と同じ時間に寝てしまうことも多く
あれこれ深く考える時間も余裕もなかった
それがかえって良かったのかも知れないと今では思う
そんなある日、定期健診後の病院
いつものようにW医師に辛い現実を突き付けられ
涙をこらえながら、会計を済ませて家に帰ろうとするわたしに
一人の中年女性が走り寄ってきた
その女性は突然
わたしの目を真っ直ぐ見つめながら
両手を ギュっと握ってきた
誰?
「大丈夫よ、きっと元気な赤ちゃんが産まれてくるから
気を落とさないでがんばって!」
彼女の目にはうっすら涙さえ浮かんでいた
あのプライバシーの一切ない診察室で
わたしのうしろで順番を待っていた人なんだろう
年齢からすると産科じゃなくて婦人科の患者さん
なんだか聞かれてはいけないことを
聞かれてしまったような気がして
わたしは、一瞬、固まった
長い沈黙の後
「ありがとうございます」そんな言葉もそこそこに
わたしは逃げるようにその場を立ち去った
一人残され怪訝そうに立ち尽くす彼女の顔・・・
きっと彼女が思っていた其れと
わたしの反応があまりにも違いすぎたからだろう
検診のたび厳しい言葉を言われ
どう考えても健康な子が産まれてくるとは思えない状況
おろすという決断ができなかったくせに
いまだに、厳しい現実を突きつけられるたびに
泣くことしかできない自分
そんな自分の姿が無性に恥ずかしかった
妊娠も後期に入ると
恐れていた妊娠中毒症の症状が現れ始めた
特に高血圧、腫みがひどく
予定日の1か月ほど前には
母子ともに要監視状態と言われ入院となった
幼稚園児の長男を残しての入院
また、
旦那や義両親に迷惑をかけることになってしまった
妊娠中毒症で入院したわたしの病室に
ぶーちゃん看護師さんがやってきた
長男の出産の時も流産の時もそして次男の時も
ずっとお世話になっている看護師さんで
点滴の針を入れるのが天才的に上手く
針が入りにくいわたしは散々針でつつかれたあげく
月歩さんは時間がかかるから後回と
他の人がみんな終わってから再チャレンジされるのが常だった
そんな時旦那が病棟のどこかにいる
ぶーちゃん看護師さんを探してきてくれて
「わたし今日、月歩さんの担当じゃないんやけどなぁ」と言いながらも
一回でスコーンと針を刺して去ってゆく
大きくて優しくてデキる看護師さん
そのぶーちゃん看護師さんが
「どうしても取り上げてもらうのはW先生じゃないと
かなわん?」と聞いてきた
かなわんって言うのはきっと 叶わないか と
いう意味でぶーちゃん看護師さんの
地元の方言なのだろう
入院時の問診でどうしてもW先生にとりあげて貰いたい
そう言ったからこんな風に聞いてきたのだだろう
だってわたしはそれが目的でここの病院に来たんだもん
たとえお世話になっている
ぶーちゃん看護師さんからの話でもどうしても譲れない
今までの事情をすべて話し自分の気持ちを伝えた
「わかった、先生に話してみるわ」と去って行った
決して、無理だとは言わなかったぶーちゃん看護師さん
やっぱり優しい人
我儘な事を言っているのは十分わかってる
ベテランのW先生の当直時間は極端に少ない
わたしの出産のためだけに休日のW先生が来てくれるはずもない
まして、奇形児かも知れないと診察のたびに言ってたのだから
リスクの高いお産にだと言いのはよくわかっているはず
できれば関わりたくないだろう・・・
どんなに辛くてもこの病院に通っていれば
長男と同じようにまたW先生にとりあげて貰える
なんて都合よく考えていたわたし
またも自分のバカさ加減を思い知ることとなった
出産予定日まで10日と少し
後はW先生がお産担当の短い時間内に速攻で出産する
そんな奇跡的な出来事を願うしかなった
ただ、臨月に入ってからわたしの心は
不思議なほど澄み渡り落ち着いてきた
今さらじたばたしてもしょうがない
なるようにしかならない
たとえどんな現実でも受け入れよう
母としての自覚なのか
時間をかけて少づつ強い人間になれたのか
心穏やかにその日を迎える準備が整っていった
どんな姿でも良いから早く赤ちゃんを抱きしめたい
心はだだ、それだけだった
ぶーちゃん看護師さんが
W先生に話をする間も無いほど、その日は突然やってきた
予定日の一週間以上も前のある朝
看護師さんにお腹の張をみて貰い
そのまま機械でくわしく張を調べる部屋へ
それが終わると陣痛室へと連れていかれた
へっ!? 何にも自覚症状無いよ
なのに陣痛室なんて
とりあえず旦那に陣痛室に入った事を知らせておこうと
公衆電話へ
でも、旦那はどこへ行ったのかつかまらない
G・Wだから長男を連れて
公園にでも行っているのかもしれない
まぁ~、そんなに焦らなくても大丈夫か
長男の時も痛いと思ってから24時間かかったしと思い直し
電話をあきらめて陣痛室に戻った
そこで、看護師さんが待ち構えていて
吸盤みたいなものをお腹に何か所か張り付けられた
これでお腹の張や赤ちゃんの心音なんかを管理するようだ
「検査で遅くなったけどお昼ごはん置いといたから少しでも食べといてね」と
看護師さんは出て行った
「食べますよ~だって、痛くもかゆくもないんだもん」と食べ始めたけど
なぜか全く食べ物が喉を通らない
アレ? おかしいな そう思っていると少し痛みが出てきた
やっとか、でもまだまだ
早くて夜中か時間がかかれば明日の昼過ぎかだな
陣痛が強くなると食べられないからとにかく食べとかなきゃ・・・と
思うんだけどやっぱり食べられない
そのうち痛みはだんだん強くなってきた
アレ? アレレ??? と思ってると
ぶーちゃん看護師さんが陣痛室に入ってきた
お腹に張り付いた吸盤の数値を見て慌ててきたみたい
あっ ぶーちゃん看護師さんが今日の分娩担当なんだ
ラッキーなご縁が嬉しかった
「ハイ!分娩室行くよ 歩いていける車いす要る?」と
「そうなのもう? 全然大丈夫です 歩いていけます」と答える
でも、立ち上がって数歩きだした途端
強烈な陣痛で歩けない
陣痛らしい痛みを感じてからまだ30分もだっていないのに
こんなに早く産まれちゃうの?!頭の中はパニック状態
ぶーちゃん看護師さんに引きずられるように陣痛室を出て
何とか分娩室の前に・・・
そこで グッ と違和感
すぐわかった
出てきたよ~!!赤ちゃんの頭が
「もうダメ~~~!! でちゃうよ」叫ぶわたし
分娩台に半ば無理矢理に載せられる
流石、ぶーちゃん看護師さんの腕力は偉大だ!
「まだダメよ、今先生呼んでるから」
ぶーちゃん看護師さんが赤ちゃんの頭をカーゼで抑える
「もう無理-!!」
「すぐ先生来るから」
そんなやり取りを何度か繰り返したあと
G・Wで休診のため仮眠でもしていたのか
頭に寝癖を付け白衣さえ着る間も無かった若い医師が駆け込んできた
それまでの不安など考える余裕もない あっ という間の出産だった
平成六年 五月五日 午後五時十分
四十九センチ 3160グラム
「男の子です」と若い医師
男の子やったんや・・・その時初めて知った
エコー検査の時、性別なんて聞ける雰囲気じゃなかったし
そんなことは二の次三の次だったから
分娩室はとても静かだった
ぶーちゃん看護師さんは産湯
医師は産後の処置
わたしは産湯の次男に目を凝らす
急に産気づいて産んじゃうからみんなバタバタよ
人手が足りないからちょっと赤ちゃん抱いてて」と
産着を着た次男をわたしのお腹の上に優しく置いてくれた
普通の赤ちゃんだ
内臓とかは見えないから判らないけど
とりあえず普通の赤ちゃんだ指だってちゃんと5本有る
ホッとしたわたしは
次男のほっぺに人差し指をちょん とつけて
「よろしく」とつぶやいた

普通は会陰切開といって
赤ちゃんが出てくる直前にメスで出口を切るのだけど
そんな処置もできず速攻で産んでしまったので
傷口が裂け出血が止まらず
その上妊娠中毒症で血圧が高く要観察ということで
左手は30分ごとに血圧を測る機械を付けられ
分娩台をベットにした狭い空間で
晩過ごすように医師から言われた
その後、何も知らない旦那が長男の手を引いて
病棟の階段をとぼとぼ上がってきた
「お父さん~! 何しとったんもう産まれてもたで」
ぶーちゃん看護師さんが階段の上から旦那に声をかけた
わたしのもとにやっと、旦那と長男がやってきた
「ゴメン、今日は子どもの日で王子動物園が無料開放やったから
長男を連れて遊びに行ってたんや」と旦那
「電話してんで、でも出なかったし・・・」
出産の時に居てくれなかったことを責める風に言ってみたけど
{まさか今日生まれるとは思ってなかったわ
男の子で良かった何せ5月5日は男の子節句やもんな」
と豪快に笑い飛ばされた
そこへ出産のときの医師が分娩室に入ってきて
「赤ちゃんに、黄疸が出ているので治療のため
特別なケースの中に入ってもらいます」と言った
黄疸はその治療をすればすぐ治るらしく
後は陰嚢水腫と言って片方のタマタマに水が溜まって
今は大きく膨らんでいるけど
溜まっている水は徐々に体に体に吸収され
幼稚園に入るころまでには普通に戻るとのこと
ようやく、旦那がやってきたので黄疸の治療をする前に
一目会わせておこうという医師の配慮だった
「ここ分娩室やから、すぐ出るように言われてるし
赤ん坊の顔見たら帰るわ~」と言って旦那は出て行った
長い陣痛でしんどい思いもしなかったせいか
疲労感はほとんどない
どこかがひどく痛いわけでもない
長男の時は24時間かかり疲労困憊で
産まれる直前の陣痛の合間にも寝てしまうほどだったのに
これこぞ超安産?
イヤイヤ 超すぎて裂けてしまったんだから
安産とは言えないか(笑
窮屈なベッドと30分置きに動き出す血圧計に縛られ
寝返りも打てない状態で眠れるはずもなく
あれこれ考える
アレ は一体何だったんだろう?
アレ とは妊娠中のこと
黄疸とか陰嚢水腫とかあるけど普通の赤ちゃん
診察したり産湯したり手や足がおかしかったら判るだろうし
W先生が何かの理由でわたしに意地悪したの・・・??
でも公立の産婦人科でもおろすこと勧められたし
妊娠中期、神戸の大きな本屋へ
お医者さんしか見ないような医学専門書も見に行った
妊娠当時のA1cの数値で調べると
奇形の確率は6割以上
ガックリ肩落して家路についたのを覚えてる
わたしはその3割いくつかの
ラッキーソーンには入れたってことなのか?
ご利益なのかも知れないそう思った
日々、大きくなってゆくお腹を抱え長男とよく歩いた道
そこに静かに佇むお地蔵さまがいた、
いつのころからかそのお地蔵さまに手を合わせることが二人の約束になっていた
実は次男は地蔵盆の夜に授かった子
長男と地蔵盆巡りをして帰ってきた旦那が
「参ったお地蔵さん全部に
どうか子どもを授けてくださいってお願してきたから」と言った時の子
そしてもうひとつは、不安に押しつぶされそうな妊娠中に出会ったある本
その本には、千手観音さまは妊娠や出産にご利益がると書いてあった
「余生を送るような年齢になったら
できるだけたくさんの千十観音さまにお礼参りに行きますから
どうか五体満足で健康な赤ちゃんを授けてください」と妊娠中願い続けた
そんなことを走馬灯のように思い出した
特別何か信仰してきたわけでもない
ただ、ただ
藁にも縋る一夜漬けみたいな仏さま頼み
それなのに、願を叶えて頂いて
ありがとうございましたと心の中で手を合わせ
きっと、きっと お礼をしますからと呟いた
今年の地蔵盆は箱でお菓子を買ってお供えしなくちゃ
あと、年取って余裕ができたら必ず千手観音さまにお礼参りに行こう
次男の黄疸も程なく治り母子ともに無事退院
晴れて家族4人の新しい生活が始まった
産まれたての次男の髪は柔らかくてふわふわ
ギュッと抱きしめて、その綿毛のような髪に頬ずりすっる
それがわたしの何よりの至福の時となった
お還り・・やっと願が叶ったね
どうしてお還りって言えるのか?・・・って
だって、神さまはちゃんと目じるしを付けてくれたんだもん
流産してお腹の中から消えてしまった同じ日
五月五日に次男をわたしの手に還してくれたんだもん
次男の誕生にはさまざまな奇跡があった
高血糖という体調の中で命の芽を結べたこと
医師の堕胎勧告を
乗り越えて出産までこぎつけたこと
妊娠期間中の10キロ以上の減量や
不安定な血糖値の上下動の中でも
流、早産することもなく正産期まで順調に育てくれたこと
そして何より
3割いくつかのラッキーゾーンに入れたこと
追いつめられ藁にも縋る思いで強く願えば
わたしのような平凡な人間にも
奇跡は微笑んでくれた
今年21歳の次男の人生はまだまだこれから
人生、山あり谷あり と言うけど
谷あり谷あり みたいな苦境の時もいつか来るだろう
でも自分に起った奇跡を胸に抱いて
強く生きて欲しい
何と言っても、あなたは奇跡の子なのだから
余談だけれど
旦那に次男の妊娠の困難さを知ったときや
妊娠中、どんなことを考えてたん?と聞いたことがある
旦那は
「何の心配も不安も無かったで
だって、俺らの子どもが
そんな風に産まれてくるなんてありえないもん」と
自信満々に答えた
なんて素敵な身の程知らずなんだろう
こんな旦那と
わたしはこれからも人生の軌跡を描いてゆく
わたし達家族に起った奇跡に感謝しながら
ねぇ、もっと年を取って時間に余裕ができたら
千手観音さま巡り付き合ってね
これはわたしが入院して
明日から旦那が長男と実家に帰ろうかと
いう前日のエピソード
残っているご飯を捨てるのはもったいないと
おじやを作ったそう
でも、旦那は大の料理オンチ
鍋に冷ごはんと水
ソースにケチャップにマヨネーズ、隠し味に醤油
とにかく家にあるありとあらゆる調味料をいれ出来上がったおじやを
「お腹すいたよー」と待ち構えていた長男の前へ
一口食べた途端
「まず~い、食べられない」とそっぽ
「何言うとんや!こんな美味しいもん今まで食べたこと無いぞ」と旦那
美味しい まずいを散々言い合った後
「今家にはこれしか食べるもんが無いんや
お母ちゃんもいないから他には何も作れない」というとあきらめたのか
「まずいよぉ~ まずいよぉ~」と泣きながら完食したそう
わたしはこの話を聞いて
「あんたら子連れ狼か!」大笑い
「で、本当はそのおじやはどんな味やったん?」
「作ってるときは絶対美味しいもの作ってる自信があったんやけど
調味料も組み合わせであんな不味いもんになるんやなぁ食べてびっくりしたわ」
わたしはお腹がよじれるほど病室で大笑い
この話は今では我が家の定番の笑い話
大変な中にも笑いやほっとすることもたくさんあった
旦那と出会ってから今まで何十年も経つけど
わたしにとって旦那はとても大きく大切な存在
それは今も昔もずっと変わらない
わたし自身の病気からくる
痛みや苦しみや悲しみはわたし自身のモノ
誰も肩代わりすることはできない
だからわたしが乗り越えるしかないのだけれど
弱いわたしは時々それを忘れ
旦那の愛情を疑ったり不満を口にしてしまうことがある
それでも旦那はそんなわたしを
いつも何度でも大きな心で包んでくれる
旦那と出会えて結婚できて本当に幸せだと思うけど
旦那はどうなんだろう?
聞いてみたいけど多分聞いても意味ないか・・・
だってもし後悔していたとしても
それを口に出すような人じゃないから
旦那は次男の妊娠を知ってから
何冊かの本を買いこんで猛勉強
三陰交というツボが妊婦にはいいんやと
仕事が遅くなった夜も
休日も妊娠中毒症でわたしが入院するまで
毎晩足のマッサージをしてくれた
真冬、長男と一緒に眠ってしまったわたしを
自分の冷たい手でびっくりさせないように
手を何回もこすって温めてからマッサージ・・・
この闘いはとても辛いけれど
決して独りの闘いじゃない
家族みんなで闘っているんだ
そう思えたからこそ出産まで頑張れたんだと思う
何年たってもこの気持ちを忘れないように
誓いを込めて、このお話はこれでおしまい