年は開けたとはいえ、東北大震災の大きな被害の復旧は途上で、まだご家族が行方不明な方もいらっしゃる。福島の原発事故も(政府の見解はかなり前のめりのように思います。)現実的に収束のめどが立っていない今。
多くの方が、ご家族をなくされたりご自宅を失われたりし、極寒の地で心細い思いをされ、福島では命懸けで収束作業に取り組んでくださっている方が、同じ空の下いらっしゃると思うと、胸が痛みます。
そんな中、あの日がまた巡ってきました。
1995年1月17日、阪神淡路大震災。
あの日、京都の我が家は震度5弱の揺れでした。
長~くゆっくりした揺れが続き、家の柱がメキメキッと音を立てました。
京都には大きな地震はこないと思い込んでいたので、あの時初めて、この地震で私は死んでしまうかもしれないと、恐怖を覚えました。それから数ヶ月余震も続き、恐ろしくて1階には居たくない日々を送りました。
そして、家族が兵庫県の激震地に住んでいましたので、震災の翌日、義父と夫と3人で、音信が途絶えた家族を探すために兵庫県にまいりました。
電車は西宮駅までしか走っていませんでした。
西宮駅構内の大人が3人で手をつないで輪になる位の太さの円柱に亀裂が入っていました。
駅は避難される方であふれかえっていました。
震災地を徒歩で移動しました。
高速道の高架が横倒しになっていました。
アスファルト道路の地割れの間から、まだ水道管の水が溢れ出ていたり、漏れるガスの臭いがしました。
下の階が上階に押しつぶされた家々。
撮影のために地面に近づき瓦礫や土埃を舞い上げる報道ヘリコプター。
上層階の大きなガラス窓が今にも落ちてきそうにぶらぶらぶら下がっている。
頻発する余震。
目の前の倒れた電信柱を支えていた街路樹が、支えきれずに倒れてきました。
腰が抜けそうになりながら、家族の住んでいるマンションを目指したのを今も思い出します。
ほんと怖かった。
激しい爆撃のあとのようでした。
そんな中、救命作業も続けられ、国道には全国から救援の消防車や自衛隊、パトカー、民間の救援者、様々な車が列をなしていました。
少しでも早く助けられる命を助けたい。
悲嘆にくれる方々、傷ついた方々を支えたい。
そういう思いが激震地に集結していたんだと思います。
私たちは、避難所をめぐったり縁者の家を探し、家族と出会うことができました。
マンションもしっかりした耐震構造だったので、設計通りに揺れを吸収して一番倒壊の危険が少ないところに破断が起きていました。
そこを補強して今も家族は住み続けています。
帰りには日もくれて、避難所前でがれきを燃やして暖を取られる方々の姿が目に焼きつきました。
あれから17年、行くたびにがれきが取り除かれ神戸にも新しい家が増えていきました。
避難所から被災者住宅に移った親戚も今は、他県に転居しましたが、元気にしています。
街は美しく生まれ変わりました。
それでもご家族を亡くされた方の哀しみは、この日また新たになるのでしょう。
資産を失い今も経済的に困難の中にいらっしゃる方もいはります。
震災やそれに伴う火災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
地震に津波、原発事故。
同じ日本に住む身ですので、他人ごとではすませられません。
いつ何時、あの恐怖がまたおそってくるか。
日本の国土は古来より龍体に喩えられていたと、ある方のブログで教えていただきました。
想像上の動物である龍。
火山も噴火し地震や津波、その蠢く大地を古人たちは龍に見立てたのでしょうか。
まだ、その龍は動きを止める気配がありません。
手荒な動きで、私たちに大きな悲嘆ももたらした龍体。
その龍体に住まわせてもらっていることを、忘れていました。
だから54基も原発を日本国中に作ることを見過ごしにしてしまいました。
そして、原発から生まれてきた電気を使ってきた自分。
原発は嫌だと言いながら、その電気を使っている。
その矛盾に自分が押しつぶされそうになることもあります。
だから今、できることを考えています。
天の恵みを大切にし、四季の寒暖をもっと工夫してしのげれば、その電気の使用量は格段に減っていくはず。
自然に即して生きていくこと、もっと大切にしていきたい。
龍の背中に乗せてもらっていること忘れないように用心しながら。
また、龍が飛翔していく動物であるのなら被災された方々の再起を祈りながら。
ゆっくりではあるけれど、じっくりとシフトしていきたいと思っています。
これからも自分の出来ることで支援を続けていけたらと思っています。
阪神淡路大震災、東北の大震災、大津波で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。