お金は無から作られる、という言葉を聞いたことがあります。
本当にお金は無から作られるのでしょうか?
金が本当に無から作られるのなら、金はバブルになるくらい簡単に作れて溢れることもあるし、逆にお金を作り使う財政を「無」しにしたところで同じ「無」になるだけと考えてしまわないか。
そんな急激に膨らんだり縮む金に振り回される恐れが出てくる。
そんな恐怖を与える「無」という空っぽから生み出される金という化け物を生み出し続けているのかもしれない。
見えないもの、つかめないもの、わからないものはなんか恐怖を感じますね。
「無」というよくわからないところから生まれた空っぽの金を私達は信じることができるのでしょうか?
現代では金がなくてはまともな生活はできなくなっている。
そんな金に縋らなくてはいけない。
お金がどこからどうして生まれるのかが分からなくなってるから、それは一気に膨らんだり急激に縮んで使えなくなるんじゃないか、という不安がつきまとう。
増税を推し進めたり増税を安易に受け入れるのは、根っこに恐れがあるのかもしれません。
だからそんな恐怖を与える化け物に枷をつけようと必死に、増税だ!、財政規律だ!、借金を減らせ、ハイパーインフレにして借金の圧縮だ!、家計の貯金があるから大丈夫だとかあさってな事に縋る。
無という何もないところから生まれる不安から逃れる為、金を集めまくる、そして逆に金に捕らわれる、カネはあればあるだけ安心できると思い込み集めまくるがどれだけ金があってもその金が不安を与えるのだから、心から安心できずさらに金を求める悪循環に陥る。
饅頭怖いといいながら饅頭を際限なく欲しがる様に、金が怖いといいふらし周りには金をなくせ少なくしろと言いながら、自分にだけはこっそり金を融通しろ、競走で他人の金を奪え、無意味なもの害があるものに私達の金を使いそこからこっそり金を掠め取る。
金を際限なく欲しがるようになる。
でもお金は本当に無暗に怖がる化け物の様なものなのでしょうか?
どこから来てどこへ行くのかがわかればそれほど恐れるものじゃないのかもしれません。
お金がなんで使えるのかと言えば、それはそのお金に見合った物が商品があるから、誰かが作ってくれたからこそお金は使える。
どうやって物を作るのかと言えば、いろんな知識技術を持ったたくさんの人、多くの会社工場などがあるから。
でもそれらは今の自分達だけで築いたのではなく過去の人らが積み重ねてきてくれたから。
だから今私達はそれらを使ってよりよい物を、多くの物を作り上げることができる。
そう自分が仕事を頑張ってきた過去、会社を作り物を作り続けてきた会社の伝統、社会や国を背負い将来に受け渡してきた歴史、それらが「有」るからこそお金は使えそんな中身が詰まったまっとうなお金を存分に使うからこそ豊かになれるのではないか。
作ったお金に見合った物を作りそれらをお互いに譲り合う助け合う約束、価値あるものを作り上げる、作り上げるには過去の人らが積み上げてきた物作りの知識を技術を会社を借り使って作り上げる。
それらを忘れて見えなくなっている。
「金は無から生まれる」という言葉が出てきたのは、今まで私達が過去から積み上げてきた人々の営みをそこから生まれた知識を技術を、会社や社会の歴史や伝統を「無」いものとして切り捨ててきた表れなのかもしれません。
空っぽのカネ、信用の無いカネ、経済をカネでしか見ることができなくなっている。
過去の人らが積み上げてきた知識も技術も「無」いのだから今の私達が勝手に使ってもよいし、ぶっ壊してもよい、金のため外に売り払ってもよい、借りるとうそぶいて自分だけのものにして将来世代に返さなくてもよくなる。
お金は「無」から作られるのではなく、過去の人らが生活を営み積み重ねてきた知識を技術を工場を会社を私達が背負い、それら「有」るものを使いお金の中身を価値を欲しい物を自分達の力で作り上げるものかもしれません。