※5月放送のヒストリアを元に書いています。
細部までこだわる方は参考までに。
なお、この物語はノンフィクションにて候。
時代は、鎌倉末期~(南北朝時代)室町時代。
足利尊氏が、将軍になったあと、幕府開設期のお話です。
登場人物
◎足利尊氏
たかうじ 権力への感心は薄く、2人に任せる。
◎足利直義 :尊氏の弟。副将軍となる。
ただよし 政治が得意。気配り真面目な性格。
◎高師直 :一番の重臣。
こうの もろなお 軍事が得意。性格は豪胆。
3人は、子供の頃から仲が良かった。
[その他の北朝人物]
◯足利義詮 :尊氏と正妻の子。嫡男。
◯足利直冬 :尊氏と身分の低い女性との子。
長く冷たくあつかわれていた。
のちに(弟)直義の養子となる。
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[南朝の人物]
◎後醍醐天皇 :京から逃れ、奈良吉野で天皇を続ける。
◯後村上天皇 :後醍醐天皇の子
◯楠木正行 :楠木正成の子
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[情勢]南北朝時代
・京には、尊氏勢力が擁立する「光明天皇」
・奈良吉野には、「後醍醐天皇」
■1、1336年建武3年11月 室町幕府が開かれる。
{尊氏32歳、直義30歳、師直不明}
室町幕府ができて11年間、政治は安定していた。
だが、南朝の後村上天皇が動き出した。
■2、1347年 後村上天皇のもと、
楠木正行が大阪東(河内)で挙兵する。
・足利直義が、出陣鎮圧に向かうが、連敗。
・次いで、高師直が出陣、勝利する。
南朝側を追いやることに成功。
2人が京に戻る。
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■3、(弟)足利直義が、冷遇されていた尊氏の子・直冬を養子にむかえる。
だが、これに高師直が反発(嫡男義詮を脅かすおそれあり)。
それに対し、
・直義の腹心らが、高師直をおそれ、追い落としくわだてる。
将軍家を軽んじているとのうわさを流す。
・尊氏と直義は、そのうわさを信じ、高師直を解任。
・高師直は、自軍勢を都に呼び戻し、尊氏と直義のいる館を包囲する。
(御所巻 ごしょまき)
要求は、直義腹心の引き渡し。
・直義は、自らの責任とし、出家。政治から引退。
高師直は、要職に復帰する。
■4、1349年 広島県 鞆の浦にて。
直義の養子・足利直冬は、直義隠居の知らせに憤慨し、
打倒師直のため、九州に渡り、挙兵。 勢力を拡大する。
・尊氏と高師直は、出陣を決める。
・1350年10月26日(将軍出陣2日前)
足利直義は、京を脱出。奈良の南朝に向かい、手を組み、挙兵。
直義側に兵が集まりだす。
・将軍側は、両者に挟まれた状態。敵に寝返る者も現れ、劣勢。
直義側との戦で、敗戦。
尊氏と直義が和睦。
高師直は、出家することが決まる。
だが、京に向かう途中、暗殺されてしまう。
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■5、尊氏は将軍のまま、直義が政治の実権を担う形に戻る。
だが、
南朝方と戦勝後の利権について、まったく決めていなかった。
・最大の問題は、天皇の皇位。
直義は、北朝と南朝の交互に擁立を考えていたが。
南朝方は頑なで、交渉は難航。
・・・師直派が力を巻き返し始める。
・1351年5月15日 南朝方との交渉は決裂に終わる。
世間では南北朝統一の期待があり、失望は大きく、
直義の求心力はなくなっていく。
直義自身は、政治への感心が薄れていく。
・そのころ、京の近辺で南朝方の勢力が盛り返しており、
尊氏が出陣する。
■6、尊氏の出陣のあと、直義の謎の行動!?
・直義は、自身の腹心が治める金ケ崎(北陸)へ、無断で移ってしまう。
◆直義は、判断力がかなり衰えており、
尊氏に攻撃されるのでは、と思い込んだのでは!?との解説。
・尊氏は、弟直義に戻るよう手紙を送るが、拒否。
・・・そのうちに、
直義のもとへ、手柄をあげたいという者らが集まりだしてしまう。
■7、足利尊氏(兄) VS 足利直義(弟) の構図が出来上がってしまう。
互いに、兵を集め、幕府は二分して戦うことに。
・1ヶ月の戦いのあと、
1351年10月2日 2人は直接話す機会がもうけられた。
だが、
戦を回避したい両者だったが、まわりの状況からもうそれはゆるされず、
和睦はならなかった。
■8、直義は、さらに兵を集めるため、鎌倉に向かった。
・足利尊氏は、京に戻り、南朝と手を結ぶ。
1351年11月3日
北朝を廃し、南朝のみが皇位を継ぐことに合意する。
尊氏が、優勢に立つ。
・翌日、尊氏は出陣し、1ヶ月ほどで、静岡県薩埵山まで進軍。
この付近で両軍、進軍を止める。
直義軍も10万人にもなっていた。
・翌月、関東数万の武士が、将軍尊氏に味方しようと集まりだす。
直義軍は、衰退していく。
■9,・・・・・・『観応の擾乱』から2年、
直義が降伏。
1352年1月 尊氏と直義の和睦が成立。
■10、直義は、浄妙寺(鎌倉)に幽閉される。
浄妙寺は、少年のころ3人が集ったところであった。
そしてすぐ、直義は病に倒れる。
2ヶ月後、死去2月26日 享年46
・尊氏は、1年以上、鎌倉に滞在。
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観応の擾乱で、大量の武士が動員されたことにより、
その後の武士の世の中をつくるきっかけとなったと考えられる。
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尊氏と直義と師直、三国志の3兄弟に雰囲気が似ている
感じがしますね。
この歴史を見てみますと、
ターニングポイントがいくつも存在していて、
しかも、今現在の知識でも、対応が難しいものばかりではないでしょうか。
でも、
尊氏は、なぜか最良の選択をしたように思います。
・御所巻のときは、最愛の弟を出家させています。
・弟と対決に至ったときは、
禁断の手であった一番の敵である南朝方と
手を結んでいます。
三国志の劉備のように情に流されず、
もちろん、戦を回避しようと手を尽くした上でですが、
冷静な判断を下しています。
ひとつひとつの戦を、長期化させていないことも、
良い選択だったかと思います。
読み返してみても、
回避する方法がなかなか見つかりません。
大変な時代だったな~と。
小学生の頃好きだったお菓子、教えて?
うまい棒、かば焼き、ビックリマンチョコ、
まだまだあるけど思い出せないな~
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