母方の祖父の分も、年表を作成しました。
色々な資料に書いてあることを一つにまとめると、だいぶ分かりやすくなります👌


出征の時期や場所が異なるから、比較しても仕方のない話だと思うのですが、2人の祖父の軍歴をどうしても比べてしまいます。

フィリピンでの従軍歴は、個人の記録と部隊の記録の流れは概ね同じであったものの、数日のずれがあるなど、ややチグハグなものであったのに対し、
中国での記録は先に福島県から送ってもらった資料と、『戦史叢書』の部隊の記録が一日たりともずれることないのが奇妙に感じました。

記録をする人の性格や力量もあるのかもしれないですけど、やはり戦況の違いもあるように思います。
フィリピンでは補給も乏しく、部隊から個人が離れ、バラバラになっていったことが分かりましたが、
中国の祖父のいた部隊からはぐれるような人はほとんどいなかったと見えます。

戦闘のことにも触れられてはいましたが、どんな戦いだったのかは分かりません。
結構、マニアック?な部隊だったみたいで、本当に資料が少ないです。

"斬り込み"のような話も書いてないだけに、また背筋の凍るような感じはしませんでした。

もちろん、本当のことは分からないですよ✋
ここに書いてないから何もなかったと言う気はさらさらございません。


昭和20年8月14日、停戦に関する詔書が煥発され、上海で戦闘行動が停止されました。
これが明日で、ちょうど75年ですね…。

9月26日に武装解除。
10月16日には、祖父は暑さと疲れが祟り(敗戦のショックもあったでしょう)、脚気とマラリアに罹患しました。

浙江省、福建省、江蘇省を行ったり来たり大移動したのですから無理もないですね。
当時の中国の地図を見てみると、鉄道が通っていない部分もあるので、浙江省と福建省の間の移動はもしや徒歩だったのでしょうか…?🤔

日本の都道府県くらいの感じで置き換えてしまいそうなんですが、中国の広さって半端ないです💦


それからどう過ごしていたのか分からないのですが、翌年の昭和21年1月の後半になって内地帰還の動きが出てきました。

フィリピンに行った祖父が復員できたのはこの年の年末でしたので、こちらは比較的早く復員できた方でしょうね。


こちらは最後の資料、除隊召集解除者連名簿です。
祖父が佐世保港に上陸し、除隊となった日に調製されたものと分かり、その日に思いを馳せましたよ😌

当該部隊では多くの人が無事に帰還できたと言え、残念ながらそれが叶わなかった人もいます。
祖父が幸運にも、内地除隊者621名の中に入れたことにホッと胸を撫で下ろすような気持ちです。

生きて帰ってくることが恥ずかしいとされた時代ですから、祖父自身も堂々と胸を張ることができなかったかもしれません。

でも、そんなことはないよ!と私は言いたい。
祖父が命を繋いでくれたから母がいて、私がいるわけで。
生きて帰ってきてくれたことに、ただただ感謝します🙏

また、途中で病気にもなり、色々な人に助けていただいたに違いありませんから、75年の時を越えてお礼を申し上げる次第です。