気合いを入れて、手元にある祖父の資料を読み終えました👍
終戦の日になんとか間に合いました。


これは、祖父の所属した独立混成第62旅団砲兵隊(操第6473部隊)の留守名簿です。

表紙に色々な数字や記号が表記されていますが、それが一体何を表すのか全く分かりませんし、紙の汚れ具合といい何ともおどろおどろしく見えます。

右下をよく見ますと、総員712名のうち除隊・召集解除が621名、死亡が24名、生死不明が11名、入院が25名、転属が28名、残留が3名となっています。

色々な従軍の話を聞く限り、この部隊の生存率は良い方なのではないでしょうか?

こちらがその中身。
第3中隊に所属していたことが分かりました。

当初、祖父は現役兵として独立野砲兵第7大隊に入営しました。

横須賀で海軍の工員をしていて召集が来て、一旦は福島へ帰ったのでしょうが、
そこから下関、釜山、朝鮮と満州の国境付近を越えて、いわゆる中支・南支へと向かいました。

その後、昭和20年2月に軍令により編成が変わり、この独立混成第62旅団砲兵隊の第3中隊へ転属になったようです。

厚労省から送ってもらった資料の中に、『戦史叢書』の独立混成第62旅団砲兵隊の部分の写しが同封されていたのは良かったですが、
最初の"独立野砲兵第7大隊"の資料が何も見つからないんですよ💦

福島県から送ってもらった資料で祖父の行動歴は粗方分かりましたが、部隊の略歴が全く掴めないのは個人的に悔しいです😤

独立混成第62旅団砲兵隊 第3中隊の兵力ですが、中隊長以下136名、装備は九一式十糎榴弾砲 4門となっていました。

私には武器の知識もありませんのでちんぷんかんぷんですが、榴弾砲というのは大砲みたいです。
136人で4門を扱うと考えると、1門につき30人程度となりますが、どうやって使ったのかもよく分からないですねー🤔

全員が全員、大砲を操作するってことはない気がしますよ。
何か役割分担がありそうなものです。


しかし、じいちゃんよ!
私や母の前で、通信兵だったなんて言っていたのは何⁉️

まったく、何故そんなことを言っていたんだか!
私の記憶の中では、はぐらかしてるような感じでした。

私達には知りようもないと思ったのかもしれないけど、これで分かってしまいましたね〜😂