自作の年表はやっぱり見づらいもので、満州時代とフィリピン時代とで分割してみました。

召集されたのが昭和16年7月、船舶廠に転属となったのが昭和18年9月。
なので、満州時代はおおよそ2年余り、フィリピン時代は昭和21年末までの3年半となります。


次の疑問点は、フィリピンでの戦闘から敗戦までの経過と、終戦から復員の過程です。
厚労省から送ってもらった資料では全てを知ることはできませんし、今と昔とでフィリピンの地名も変わっている部分もあるので、調査は難航しています。

そもそも、私はフィリピンのことはあまり詳しくないですし、適切な資料すら見つけられずにいます。

しかし、部隊こそ違えども、同時期にフィリピン戦線にいた方のお話は参考になりますね。

ルソン島敗走と捕虜収容所生活



祖父の資料を見ても分かったことなのですが、昭和20年8月15日に日本国としては無条件降伏を受け入れたにも関わらず、
祖父らはそれから一ヶ月近く、山に潜んで戦闘を続けていたようなのです💦

敗戦をどの時点で知ったのかは分かりませんが、9月半ばまで停戦しなかったのはたしか。
食糧も尽き、敵と戦う以前に飢餓との戦いだったようです。

今、飽食の時代に想像を絶しますけど、食えるものは何でも食ったと…😰
そのせいなのか分からないですが、祖父はお肉がほとんど食べれなかったんです。

親族みんなで、地元の焼肉屋さんに行った時に気分が悪くなって、その場で横になってしまうくらいでした😓
壮健な祖父がそこまで具合が悪くなるところを見たことがなかったので、何か理由があるんじゃないかと思ってました。

虫とか、蛙とか、鼠とか、普通は食べれたもんじゃないので、何か嫌な思い出があったのかなーと察します😖


あとは、地元住民の方の反発。
バカヤロー!って石が飛んで来るって話は、本当に無理もありません。
直接、何か悪さをしたわけでなくても、人の土地に勝手に上がり込んできて戦争をしてるんですから、お怒りもごもっともです。

アメリカ軍の捕虜となったことは本人なりの落ち込みとか、屈辱を感じたと思うんですが、
一人一つのベッドと毛布が与えられたり、一日に2食、栄養があるものを必ず食べられたりしたことには安堵したのではないでしょうか。

ただ、終戦から復員までは一年半も掛かり、その間どういう境遇に置かれたかは気になります。


満州にいて、ソ連に強制労働をさせられた人に比べれば、南方からの復員は早い方だと言われていますが、一年半だなんて…😱
復員の時期がいつと分かっていたなら待てそうなものですが、まだか、まだか、と思ったはず。

外国語が達者で、米軍の資料やフィリピンの歴史書を探れたら良いですが、私にはそうもいきません⤵️
あと、できることがあるとするなら、同じ戦地へ行っていた方の戦記などを読むことでしょうか。

所在は掴んだのですが、このコロナ禍でね…
もう少し落ちたら、必ずやアクセスしたいです。

これからまだ新しい証言を目にすることもあるかもしれませんし…
常々、アンテナを張り巡らせておきたいものです。


軍歴調査を思い立ってからおよそ一年。
祖父の語りたがらなかったことを追い求め、余計なことをするな!と、
ただでさえ私のことを良く思わなかったであろう祖父が怒って、夢枕に立つ👻んじゃないかと、眠りが浅くなることもありましたよ。

つまらないことで今更怒られるのは嫌だなーと思いつつ、対話ができるなら、それはそれで質問もできるからまあ良いか!と思いました😂
しかし、もはやこの世には何の未練もないようで、一度たりも夢に出てくることもありませんでしたよ。(笑)

今頃、ばあちゃんとは、まったく困った子だねーと、会話をしてそうですわ😑
まあ、何事も知ってしまった以上は無関係でいられませんから、私の命ある限りは掘り下げていきますよ👍



さてさて!
そろそろ、母方の祖父の方へシフトしないと!
なして、わげのじっさまのことは調べてくれないんだべ‼️と、目の前にいる人から脅迫を受ける寸前です😱

福島県から送ってもらった資料だけで、粗方分かってしまったから、ちょっと余裕ぶってしまいましたね😅
勝手に自分なりのリミットを決めていますが、8月15日までには必ずはっきりさせますよ。