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TUAD文芸 ファンタジー班のブログ

1期生によるエッセイ集

越境するのが物語
戦うのも物語ではないだろうか?
現代小説とそれまでの文学とを分ける重大な違いとして、
「戦いの勝敗が初めから決まっている」というのがあるのではないかと思った。
遡れば、生まれた時から平成不況、入学式も卒業式も天災で大荒れ。修学旅行は新型インフルエンザ。9.11のテロ、イラク戦争、池田小の児童殺害や毒物カレー事件、頻発する大地震。3.11の津波。最近ではフクイチの事故、毎年変わる総理大臣問題とかもあって、「どうしたって逆らえないもの」の存在、そして「信頼するべきもの」の変化と崩壊ばかりがどうしたって目立つ、平成生まれのこれまでの短い人生だ。
「鬱」というジャンルが形成され、認知され始めたのも、ここ十数年のことである。
そしてそういうものが現代の文学や映画、漫画などの明確なストーリ性を持った芸術メディアに与えた影響は大きいと思う。

(だがそもそも戦い無しに面白い作品を書いていける人々は限られている。神話のように明確なストーリー性を持ちながら肉体的、精神的戦いの描写を避けて面白い小説を完成させるためにはこれまで以上の文学的、芸術的センスが求められる。ストーリー性を保ちながら、戦いが描かれない、しかし面白いとなると、それは小説と言うよりもエッセイに近い文章になってしまうのではないだろうか? 事実、ブログ本というのが出版され、好評だったこともあったはずである)

豊かな生活を経験していない世代にとって、豊かな生活はファンタジー童話に過ぎない。
「昔、俺たちの世代ならこうはならなかった」
「今の若者はなぜ怒らないのか」
そんなことを言うのは決まって豊かな世代の人々だ。
若い世代から見れば、彼らは「ファンタジー童話の中の住人」と同じなのだろう。
抵抗しても無駄なことが増えすぎてしまったのだろうか。
今や、日本と言う国はファンタジーの空想を広げる人々で溢れかえっている。
若者は夢から覚めず、年寄りは夢を実現することばかりを考えてもがいている。
そうして次第に、世代は移り変わっていって、日本はファンタジー童話の住人達によって支配される国家になるのだろうか。
 底冷えする平屋の一部屋は寒い。寒いとなぜ眠気を催すのか。これが良くあるコールドスリープ装置の仕組みなのだろうか。寒い間は、何もしなくとも若さを保ったりすることができるのだろうか。
 醤油の瓶の底に小さなヒビが入り、毎日わずかな量の醤油が漏れ出している。それに気がついたのは、瓶を拭いても拭いても醤油が付いたままだどうしたものかと良く見て確認した時である。その頃にはすでに布巾は半分近く醤油を飲み込まされていた。流しでそれを絞ってみると、卵掛けご飯にかける量の倍以上の醤油がしたたり落ちた。どす黒い茶色と紫を混ぜ合わせたような液体が銀色の流しにぽたりと落ちて、小さな飛沫をあげながら使い物にならなくなった。
 それはまるで春が死んでしまったようだった。
 足元から伝わる冷気に足を痺れさせながら、蛇口をひねり、醤油を排水溝へ流しこんだ。水道水を出したのはいつ以来だろうかと考える途中で欠伸をかみ殺し、床に散らばった本とプリントと菓子パンの袋をよろよろと踏みつけながら、すっかり中まで冷たくなったベッドに潜り込んだ。
 起きてからまだ3時間も経っていなかったが、すぐに瞼が重くなりだした。
 俺たちは買い物に行くときに、買った物を入れる袋を用意しないといけないが、これにカルチャーショックを受けたのはだいたい2年前だったと思う。アパートにまだ家具が冷蔵庫・洗濯機・食器棚(本棚の代わり)しか無くて、他の物を収納するのに段ボール箱を使っていたときだ。近所のヤマザワで初めて有料のビニール袋を買った。初めはビニール袋を買っていなくて、でもレジを通した買い物かごに袋は入っていなくて、店員が忘れたのか、いや買った物を袋の中に移す台の所に用意されているのだろうかと思っていたのだが、ふとそこでレジの所に「レジ袋1枚3円」という札がかかっているのを発見し、俺は今までとは違う街にきてしまっているのだと感じた。

 そういえば良いこたつ布団が欲しいとずっと思っていたはずだったが、今の今まですっかりそれを忘れていた。こたつに入っていると、なぜかいつも熱が出る。まあ大抵室温が7℃以下なので、当然と言えば当然なのだが。健康な体を手に入れる一つの手段として、頭寒足温というのがあるが、俺はもうこの言葉を信用していない。足湯など親父たちのすねに溜まった垢で詰まって枯れてしまえ。
 だがこたつを買うときも、今使っている安っぽいポリエステルのこたつ布団を買うときにも、レジ袋は無料であった。近年は国内の問題ばかり人々の注目を集めているが、石油は果たしてあと何年で枯渇するのか。ポリエステルの方が、綿100%よりも高価になる時代はいつやってくるのだろうか。
 どの風吹けば飛べるだろうかという合唱曲もあったが、今や飛ぶ鳥こそが汚される対象となっているようだ。今日も冬晴れの青空を様々な鳥たちが突っ切っていくのが見えることだろう。飛び立つことと、飛び立たないこと。どちらがより正解に近いのだろうか。飛び立てば寿命が縮む。飛び立たなければ食料か、羽毛布団がせいぜいの未来だ。水面に浮かんでみればレジ袋を飲み込んで窒息。木にとまればよいかもしれないが、いつの間にか木は鳥でいっぱいになり、そこにいる虫たちを食い尽くすだろう。
 だから、ものの滅びを見つめることを現代人は覚えたのかもしれない。