自分にとって教育とは。
教員を目指してるわけでもないし、教職を持ってるわけでもない。
でも教育には興味があって、
自分にとって教育とは何なのかを最近考える機会が多々ある。
私は小学2年生までは日本の教育をかじった。
そのため九九などの基本的な計算等、自分の教育の基盤となるものは日本教育となった。
それからアメリカの小・中学校に在籍し、日本の教育基盤があったおかけでクラスでは上位にいた。
ここで強調したいことは、教育が遅れていると言われる途上国に限らず、
アメリカやイギリスなどの先進国でさえも日本のような九九で計算をやることはなく、
小学校のクラスメートたちは足し算・引き算を指でする子がたくさんいた。
自分が実際にこの二つの環境を経験していたにも関わらず、
この事実に気づいたのはつい最近のことだった。
これは本当に驚くべきことで、先進国がこのような状態で途上国に入り込んで教育を教えられる立場ではないと思う。
この問題についてはいつかまた書こうかな。
とにかく私は「賢いアジア人の一人」として努力せずに褒められて育ってきた。
日本に帰国してからも高校受験は帰国枠で進学校に入学。
ここで私は人生で初めて学問という壁にぶち当たった。
当然日本の暗記式の試験勉強に慣れていないのもあったが、
なによりも試験のために「やらされていた」勉強が楽しくなかった。
勉強を初めて楽しいと思ったのは、昨年度のイギリス留学の時だった。
イギリスの大学では授業で話されてもいないお題を出され、それについて自分で論文検索をし、「自分で学ぶ」ということが重視されている。
試験も、理系にも関わらずお題を選び、数ページのエッセイを3つほど書き上げる。
そのエッセイは自分が勉強するときに調べれば調べるほどたくさん書ける。
授業の内容だけで高得点は取れない。それが当たり前だ。
受身的だった勉強も、自分が知りたいことを調べていくと、どんどん知りたい気持ちが湧いてきて、自然と勉強が楽しくなった。
もっと早く学ぶことの楽しさに気づいていれば私の人生は変わっていただろう。
勉強というのは、目の前の教科書に書かれたことを理解することではない。
教科書に書かれているものが、植物の幹だとする。
そうすると勉強というのは、
その幹が地上に出てくるための基盤となる根っこの部分だったり、
幹から何本も無数の方向に生え出ていく枝だったり、
それぞれの枝から生える似たようですべて異なる個々の葉だったり、
次の新しい植物へと繋がる実など、
幹から無限につながっていくものを自分で手探りして調べていくことじゃないかと思う。
植物の幹だけ見てても正直何も面白くない。
でもそこから広い視野を持って植物全体が見えたら自分の心もどれだけ広がることか。
残念なことにこういう勉強の楽しさに気づけるかは自分の周りの環境によると思う。
だから教育とは、ある物事を教えるのではなくて、
その物事がもつ無限の繋がりに気づかせてあげ、
視野を広げるきっかけを与えることだと思う。
いきなり広げろと伝えても、怖がって目を閉じてしまうかもしれない。
だからちょっと先に目を向けさせて、
そこから無限の方向へと走っていくのを見届けるのだ。