以前、臨床の現場で仕事をしていた時、患者さんの治療効果があがらないのを、「あの患者は性格が悪いから」「わがままな患者だから」「患者に理解力がないから」「「患者が怠けているから」と、自分のセラピーの未熟さを反省することなく、何でも患者の「せい」にしてしまう一派がいます。
 
 しかし、その一方で治療効果が上がらない原因をセラピスト自身の「技術の未熟さ」として自分の治療の仕方をますます工夫する方向で考える人たちもいます。
 
 私がこれまでの臨床経験のなかで「尊敬する先輩」たちは後者の方々でした。
 医療の現場ではそれが当たり前のセオリーだという気がします。

 しかし、福祉の現場ではというと・・・・
 生活困窮者や多問題ケースなどの相談にのる福祉士や保健師達は、「因果応報」とばかりに相手の生活の過去や現在を批判し「こんな生活をしているからダメなんだ」「生活習慣を変えるように何回も訪問して助言しているのに聞き入れないから病気になるんだから、自業自得だ」と言わんばかりの発言。

 「ああいう人は・・・だから困る」「これからこんな人(いかにも蔑視したような見方)が増える一方でどうしようもない」
 確かに、中には生活能力の弱い人もいないわけではありません。
 しかし、これまでの人生(まがりなりにも数十年はそういう生活背景のある人)を真っ向から否定し「変わった人」「能力の低い人」という見做され方をされる当事者とそういう評価を下す支援者。


 家族間の人間関係や精神疾患などが絡んでくると、ますますその家族全体をも悪く評価してしまう見方が組織的になされるときはやっかいです。

 嫁姑の確執、姑の人格障害、嫁さんの双極性障害の発症や引きこもりの子どもたち、夫も一家のなかでキーパーソンになりえない一家がありました。
 そんな一家への批判的言動、それも直属の管理職の上司ですら、「気ちがいの嫁」と差別用語を口にする。引きこもりの息子さんたちへの評価も「仕事もぜず困った子ども」という評価なのです。
 そういう組織内の人たちが話す会話などから、その組織がどういう価値観を持って支援をしようとしているのかがわかってきます。

 今の組織には理屈や支援のノウハウはあるかもしれないが、「マインド」が感じられないのです。
 そんな組織で仕事をする自分の「マインド」も脅かされてしまいそうで、この組織にいる意味を見出せなくなってきている自分がいます。