【最近の発見】

Pritchett(that name again), who has been described by Frank Kermode ‘by such a margin the finest English writer alive that it hardly seems worth saying so’, is the present-day example of a writer whose genius has found best expression in the short story. That there should be no provision in the Booker or Whitbread for the form in which he excels and in which his greatest contribution has been made seems extraordinary, if not as ridiculous as declaring a world class sprinter unworthy of Olympic gold in the grounds that he performs less well in the marathon.


という文に出会いました。if notより前半はどうでもよくて(Pritchettという作家はすごい、なんで有名な賞に彼が秀でている部門のための賞がないのか分からない!というような内容)、それ以降が引っかかったところです。その部分を引用します。


if not as ridiculous as declaring a world class sprinter unworthy of Olympic gold in the grounds that he performs less well in the marathon.


if notは「〜とは言わないまでも」が定訳なので、(要約すると)「短距離走の選手を、長距離ではそこまでの結果は出さないからという理由で金メダル受賞には値しない、とみなすほど馬鹿げたことではないにしても」になりますが、作家の話が主題だったのだから、「〜と同じくらい馬鹿げている」という(いわゆる「クジラ構文」みたいな)レトリックなら分かるけど、なんでわざわざ「〜とは言わないまでも」という情報を突然付け足したんだ?と、最初に読んだ感想として持ちました。


これに対して、「この断りを入れなければならないくらい2つは拮抗している」、すなわち「同じくらい理解できないことだ」ということを表すために言及した、と語学書には書いてあり、なるほど、となったのですが、これは(確信はありませんが)Griceのimplicature theoryのmaxim of relevance(関係の格率)で説明がつくのではないか、と考えられます。


読み手は、書き手がmaxim of relevance(関係の格率)に従っていると想定しているので、「なぜ関係のないように感じられるマラソン選手の話をし出すんだろう」と感じ、そこから「両者は同じくらいに馬鹿げたことだ」というimplicature(含み)が生まれるのではないか、と考えられると思うのです。


調べてはいませんが、辞書にもA if not Bで「A、いやひょっとするとB」という「意味」が載っているらしいです。しかし、この「意味」は意味論上の「意味」ではなくて、語用論上の「含み」から生まれた「意味」だと考えられるのではないか、つまり、A if not Bは、「意味論」のレベルでは「BではないにしてもA」という「意味」しかなく、「語用論」のレベルではじめて「A、いやひょっとするとB」という「意味」(含み)が生まれるのではないか、ということです。


語用論的な「意味」が辞書に載ることは少なくないようですが(例えば時間的な前後関係、因果関係を意味するandなど)、上記の「意味」もその一つだと考えられます。