以前にも書いたけど私は診断はしてもらっていないけどADHDだと思う。
それは実は幼少期から症状は出ていた。ただあの頃はまだ発達障害は知的障害がないと普通とされていた時代。

そしてたぶん少し波乱万丈。。今のこの裏表ある生活、人より強い心臓はこの私の生い立ちにあるのではと思います♥

産まれるとき実は私は死産だった。。というか陣痛中に心音が消えた。お医者さんに残念ながら産まれても亡くなっていると思うと言われたらしい。そして産まれてきたら生きていた!!たぶん祖母が生かしてくれた。それはずっとずっと感じている。またこの話はそのうち🌟

産まれた直後だと思うけど。。同居人がいたらしい。その同居人は私の父の弟。この弟の事は親戚から話もでない。。話はタブーとされている。。が母が少し話してくれた。そんな少し変な環境で乳児時代を過ごす。弟は実家に帰ると言って出ていき、その足で自殺した。弟の背景は誰も話してはくれないが。。何か問題を抱えていたよう。。。

その後1歳数ヶ月ちょうど歩き始める頃にその実家に数ヶ月預けられる。。やっとあるき始めたばかりの私は時々顔を見せに来る母親を泣きながら走って追いかけていたらしい。。これは従兄弟の話から何度か聞いたけど。。この預けられた事も実家では話はあまりしない。。少し謎が多い実家はあの地区では山をいくつも持っている集落で1番の大きさだった。もうその集落はダムに沈んでしまったけど。。

その後家は引っ越しをして父は自営業を始めて何とか生活できるように。。でも驚くような貧乏だった。。お祭りの時に子供たちにあげる10円も無くて母は私を泣かないように抱っこしながら居留守してた話しをよく聞かされるアセアセ

その後保育園時代も貧乏なまま。。妹も2人産まれてさらに貧乏に!!
卒園の写真撮影の保育園の制服、帽子はあまりのボロボロなので保育士がお友達のを借りてくれて撮影するというぐらいびっくり

私は貧乏な事がわかっていたので親に欲しいもの、行きたい所、なんて言えなかった。。お友達の誕生日会にも誘われても断っていた。。プレゼントを用意するお金を頼めなかった。。七五三もしたいなんて言えなかった。。唯一クリスマスにもらったリカちゃんのスーパーマーケットが宝物。もちろんリカちゃん人形は持ってなかったけど笑!!

所々ある記憶はいつも寂しい物。父親と二人だけの誕生日。保育園バスのお金が払えなくて一人で歩いて帰ってくる道。父と母の喧嘩、宝物を持って母親と家出する支度の場面。。この寂しい記憶は今だにフラッシュバックしてどうにもならない時がまだ今だにある。。特に最近は。。ダウン

ただ救いだったのが私は可愛かった笑!!本当に!!卒園アルバムは私の写真がいっぱい〜!

そして友達もそれなりにいた💞保育園時代も友達と楽しく過ごせた照れ

そして3歳児検診はほぼ何もできない。そして言葉はまだ一言しか喋れなかった。。

母は悩んだらしい。。でも早生まれだから、遅い子もいると言われて門前払い!!本当に大丈夫なのかと不安を抱えていたと何度も聞いた。

私と同じように悩んだだろうと思うと凄く気持ちがわかるショボーンでもあの時代は仕方なかったよね。。

そのために私も苦しんだけど。。その分同じ子たちの気持ちはよくわかるよ💞

あの時代があったから今のこの発達障害の支援ができる様になったのかもしれない。まだまだ検査するのに半年は待つけど、思った支援を受けられない子も多いけど、少しはよくなってるそう思うと私はそれでよかったのかもと思います。。

発達障害よりも私の生い立ちって感じですが自分の記録としても残しておきたいと思い書きましたてへぺろ

長文で面白い話してはないのに最後まで読んでいただきありがとうございました!!ドキドキ