カンテラが燈つてゐた。何やらマスク、大きめのサングラスなど重装備の悦美。
「悦ちやんお出掛けかい?」「さうよ。買ひ物。ご飯食べるでしよ?」「あゝ。だがいゝのかい?あんたみたいな有名人がスーパーなんか行つて」「ダイジョブよ。わたしにとつては、我が身よりご飯の方が大事」
悦美は「アラサーアイドル・コンテスト」で優勝してから、獨り寢の男どもの夢を重くさせるグラヴィアで、惜しげもなく裸身を曝し、ちよつとしたどころでない有名人、となつてゐた。美形、しかもカンテラのやうな「怖い奴」の人妻、には手も出せない男たちにとつては、片思ひの戀情が尚更重かつた。
「あんたを表に出すのが俺には、ね」「でも閉ぢ籠もつてる譯にもいかないわ。わたしこれでも貴方の奥さんだもの」「まあ氣をつけて行つておゐで」
「ただいま」「あ、お帰り」
カンテラは人間型になつて、悦美の帰宅を待つてゐた。
「大黑屋さんに寄つてきちやつた。いつも貴方お世話になつてるぢやない?たまには顔を見せないと」「カッちやんゐた?何か慾しい物でもあつた?」「何となく立ち寄つたんだけど、こんな物買つてきたのよ」
見れば、三ツ矢サイダーの、瓶詰めなる年代物。老舗・大黑屋で、ならでの逸物である。
「おや懐かしい」「あらさうなの?何か思ひ出、あつて?」「うん。昔よく飲んだ、つーか飲まされた」「えー、誰に?」「鞍田文造に、さ」「あーあの『ゼペットぢいさん』。謂はれがあつたのね。ほんの偶然なのよ」
カンテラ云ふところの「ゼペットぢいさん」・鞍田文造についての詳述は、第1ピリオド『カンテラの1ダース』「カンテラくん修業時代」に詳述した。魔導士の端くれであり、カンテラの根城、烏賊釣り漁船由來のランタンの持ち主、カンテラを「造つた」男、である。カンテラ自身の手に依り闇の世界へ葬られた、異端の魔導士‐
「鞍田は酒が呑めなかつた。サイダーばつかり飲んでゐたよ」「へえ。それで貴方もご相伴つて譯」「俺の腹には合はなかつたが... 燃焼出來なくつてね」‐カンテラが火焔のspiritである事は、今更取り上げる迄もない。
翌日、思ひ付いたカンテラは、時期外れであるにも関はらず、鞍田の墓參に行つた‐ 人非人・鞍田にも墓はある。その事は悦美には秘密であつた。何故か。斬らなかつた【魔】の存在、が、何となく疎ましく...
カンテラと同じく、鞍田にも内妻があつた。その、今ではすつかり老婆である筈の女、ゆゑあつて、若々しい美貌を未だに保つてゐた。玉の井上がりの、私娼だつた女‐ こゝ迄説明すれば、「斬らなかつた【魔】」が實は彼女だと、讀者は気付かれるだらう。献花は欠かさぬやうだつた。永遠の美を誇るのは、鞍田の掛けた妖術のお蔭である。カンテラが斬らなかつたのは、斯くたる理由あつての事ではなかつた。たゞ、「斬らなかつたゞけ」。
女「あらカンテラちやん。お久し振りねえ。TVでいつも拝見してるわ。ご活躍のやうね」カ「姐さん、あんたは斬らんよ」女「あらだうして?いつかこんな日がくるのは、予期してたのよ、あたし」カ「斬る迄もないんだ。寧ろあんたには生きてゐて慾しい」女「男心と何とやらつて云ふわ。首、洗つとくわよ」
嗚呼、女。カンテラにその氣さへ起きるのであれば、女は彼にも抱かれたであらう。だが、内實婆アではね- カンテラは悦美以外の女には、脇目は振らなかつた。増してや、魔性の女。單に通りすがつたのみ、として置きたかつた。
「あたし、鞍田よりもあんたに惚れてたのよ。そのケは湧かないでせうけど」「姐さん勘弁してくれ。俺ア行くよ」
彼女こそは、【はぐれ魔】である。これから、多分、斬る機會はある。カンテラは立ち去つた。
このエピソオド、これでお仕舞ひである。サイダーからは新たな戀は生まれなかつた。「初戀の味」‐あれはカルピスか。Since 1884。歴史はまた一つ、刻まれる‐ 事はなく、悦美が惜しげもなく栓を拔いたサイダーは、何とも苦味が後に殘つた。
人生?知らぬ顔のカンテラではあつた。The End。