晴耕ときどき雨読

晴耕ときどき雨読

30代で気付いた人生の目的・夢、仕事の意義やビジネスでの学び、小説・ビジネス本など書評を徒然と記載してます。

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あと半年で卒業を迎える(はず!)グロービス経営大学院にて

「研究プロジェクト」という科目の履修が認められました爆  笑

 

 

研究プロジェクト、とは今まで学んだことを活かして、自分たちでテーマを設定したり、プランや情報収集をゼロから自らで行い、例えばビジネススクールでのケーススタディになったり、書籍になったり、自分のビジネスプランとしてスタートしたり、という与えられたものではなく、自らでアウトプットを出していく少人数のグループで行う授業(プロジェクト?)となります。

 

通常の大学の卒論やゼミには近いんですが必修ではなく

また応募をして内容の濃淡により合格、不合格が分かれるものです。

 

 

ビジネスプランとあるように、ベンチャー設立の人もいれば

自らテーマさえも考えて行うパターンもありますが

今回合格したのはテーマ設定型と言われるもので、既にテーマはあるんだけれどもアプローチであったり、そもそもどういう結論になるのかさっぱり分からない、自分たちで進めていく、というパターンのものでしたダルマ

 

 

で、どのテーマに応募したかと言うと…

 

『マンガと志・リーダーシップ等の醸成について』

 

というテーマ!

マンガと言われて、やらない理由がないプンプン

 


皆様にアンケートご協力依頼をしたのは、こういう理由でした。

ご協力頂いた皆様、本当にありがとうございました!

そして、今後も何かご協力を依頼するかもしれませんので

その際には、ぜひとも宜しくお願い致します!!

 

 

今後、どのような形になっていくか?

そもそもアウトプットはどういったものになるか?さえ分かりませんが

経営大学院の最後に自分の好きな領域である

マンガにて締めくくる事が出来るなんて、最高です!!

 

今まで、研究プロジェクトに携わってきた諸先輩方を思い出すと

ほぼ毎日のように集まり、議論をして資料を作成したように思えます。

 

あ、今日もやってる、凄いな!といった感じで見てましたが

それを自分でやりつつ会話が

 

「いや、でもルフィが海賊王になりたいのはさ」

 

とか

 

「島耕作の出世街道について大町久美子の相関は?」

 

とか、そんな事話しているんですかね。

 

他の方々が、面食らう様しか浮かびません…

日々、意思決定や会議にて新しい制度を取り入れることを決めたり

事業の修正であったり、新規取り組みであったり

そしてもちろん、終了であったりと考えていく中で

何を軸にしていくのか?という問題があります。

 

例えば、制度を改変しようと会議で話し合ったとします。

当然、その制度を入れるにはメリットもありますが、当たり前のようにデメリットも存在するでしょう。

デメリット、というよりは弊害というべきかもしれません。

 

なぜなら、なんらかの意思や狙いが、制度改変に含まれているために、例えばですがその制度改変に対して、不利益を生じる社員がいれば、ESが下がるかもしれませんし、退職に至るかもしれません。

 

 

ですから、新しい取り組みは未だ良いですが

元にあった制度の取り消しや改変については、現状からの「変化」となるわけで、人が最も嫌うものであり、反発や何らかの弊害が生じるわけです。

 

 

キャリアアップの制度を改変するとしましょう。

今までと違い、管理職になる試験が非常に厳しくなり

尚且つ、現状の管理職の中で降格者が出たとします。

 

まさに対象であった降格管理職が、良い改変だと思うでしょうか?

 

恐らく、答えは「思わない」方が多いでしょう。

 

単体で考えると、人事の手間が増えたり、管理職手当が減ったり

組織への浸透に時間も掛かるでしょうし、名刺印刷も大変です。

 

 

しかし、もう少し大きく捉えると、これは経営の意思発信ですから

現状よりも更なる会社のレベルアップをしたいけれども

現状の管理職がその理想、ビジョンにそぐわないとしましょう。

であれば、その改変により各自の奮起、成長を促すわけで、であれば会社全体にとってはそれが必要になるわけです。

 

 

更に、それは単体では正しいことでもありますが

一体、その会社の目的、目標は何なのか?

どのような社風を作りたいのか?によっても変わってきます。

 

 

どベンチャーのように、激しい成長を求めるのではなく

年次の成長率が5%以内で良く、ゆっくり成長をし

土台を固めていく、技術職が多い為に社員には長く留まり

なおかつ事業領域はニッチ分野で、競合がほとんどおらず

自社の圧倒的優位性が揺るがずに、強い特許か何かあれば

このキャリアアップの改変は、単体としては理屈は通りますが

その会社には合わない改変かもしれません。

 

中身次第ですが。

 

 

極端な例ですが、意思決定に参加していると

それが正しいのか、というより会社として、どの方向に行きたいのか?

僕らはどうなりたいのか?それに対して合っているのか?

という視点で考える事の方が多いです。

 

しかし、単体でのメリットとデメリットも勿論、絡んできますが

やっぱり大事なのは、どう在りたいか?

そこに背いていると、結局制度破綻してしまうんですよね。

日々、懸命に働く中でもつい、安全ルートを辿ってしまう事があります。

 

もちろん、リスクを軽減させて仕事を詰めていくのは当たり前なんですが、挑戦する!という時に縮こまって選択をしていたのでは、飛べるものも飛べません。

 

 

人生は選択の連続

 

常に選択をすべきルートが無数であれば助かりますが

選べるルートって意外と少ない中で、どれを取るか迷う時に

無難だから、リスクが少ないから、で自分自身の道を決めるのでなく

自分が何をしたいのか?そこに沿っているか?も重要な指針でしょう。

 

 

不思議な事に、会社が大きくなっていくと

環境に甘んじている事も、段々と出てきた気がします。

 

ガバナンス、という言葉は10年前には欠片もなかったですが(笑)

今はそれを聞く機会、言う機会の方が多く、やり方も変わりました。

 

それは別に悪いことではなく、やるべきことなのですが

それと一緒に、やってやるぜ!突き進んでやるぜ!という

野心的な心持ちというか、熱狂具合は反比例し

少なくなっていったようにも思いますし、自分の中にもその減少を感じていて、ちょっとそれはベンチャーっぽくなくてダメだな、と反省して考え込んでしまったりするのです。

 

 

そんな時に、ここ最近ハマっていたGLIM SPANKYというバンドの曲が、そんな心境を表し、後押しする曲過ぎて、とにかく刺さりました。

 

「ワイルドサイドを行け」

 

 

この感覚、この歌詞の世界観と歌のエネルギー

まさしくベンチャーマインド!と当時の事が思い返されました。

 

 

先なんて全く見えなかった10年前

入社してから、会社のビジョンだけはありましたが、そこに根拠なんて無くて、まさに根拠なき自信で分社化します!とか支店立上げの面接で語ってました。

(あんまり分社化の事を分かっていないにも関わらずてへぺろ

 

道なんて約束されてないけど、走れば作れるんじゃない?

というような心持ちでしたね、ほんとギリギリを走ってる気が…

 

 

あれから実際に分社化もして、会社は大きくなりました。

けど、当時の熱狂度合いが薄くなるのは、やはり違うかな、と。

 

自分の心に刺さる釣り針は、放っておくと硬質化し重くなっちゃいます。

でも所詮は釣り針、抜いても致命傷にはならないんですよね。

 

慎重とか、油断せずに行く、という事は当然行う中で

落ちるか落ちないか、ギリギリのライン、その道が目指す場所に繋がっているならば、恐れずに突き進んで行け!

 

そんな事を考えながら、当時の気持ちを思い返しました。

 

 

妙なしがらみに囚われて、愚痴をこぼしたり、自分の道に迷いを感じていたりするくらいならば思い切って踏み出して

ワイルドサイドを進んで行くのもアリです。

 

 

僕ももっと狂ったように熱狂して、進んで行こうと思います。

更新の間が空きましたが、先日グロービスにて受講した
「ブランディングデザインと経営」が面白かったので、シェアの意味も込めてちょっと思い起こしながら書いてみようか、と。

この「ブランディングデザインと経営」という講義には、いくつかの特徴がありました。

先ず、そもそも科目が今までのMBAにない科目

そう、今回はグロービス初のテクノベートMBA、として分類されるもので、ビッグデータやIOT、AIやロボットなどビジネス領域においてもテクノロジーへの理解というものは必須になってきました。
最近、ニュース欄で良く見る単語が多いですね目

そのテクノロジー領域とビジネスをつなげて理解し、まさにイノベーションを起こすリーダーを創出する、というプログラムです。


次に、講師がくまもんくまもで有名な水野学さん

テクノベートMBAの目玉でもあるのが本講義。
デザインこそ問題解決の技法、と提唱されており
実際に、いくつもの企業の売上にコミットしたデザインなどを提案して成果を出されてきました。


そして最後は、やっぱり「デザイン」という領域なこと。

やれフレームワークだ、やれイシューだ、とか言ってきたけど、「デザイン」分野に飛び込めるのか!?驚き
左脳というよりは、右脳な科目なのか?など
ちょっと今までと違う講義な匂いがしました。


集中講義ということもあって、全4回で既に終わりましたが
今までにない、というか、これからはこの考えがいる!!と
ポンと膝を打ってしまうほど、なるほど納得の講義でした。

実際に体感し、自分たちでとある企業の問題解決(売上に関する)を
デザインの力を用いて解決しましょう、というのがレポートでしたので
今までにやってきたような、戦略論やマーケティング云々とかより
実際にデザイナーに発注するのもアリな位、デザインに手を付ける内容でした。


さて、学んだことは本当に多かったですが、ネタばらしするわけにもいかず
大きく決意できたことは、以下です。


センスは知識の集積、だからこそデザインの勉強が必須えんぴつ


戦略を外部コンサルタントと話す時に、一定の専門用語を知らないと
意思疎通に恐らく苦労はするでしょうし、現状の分析が全く出来ないレベルで
外部コンサルと話をしても、こちらの意図は伝わりにくくなるでしょう。

デザインセンスも上記と同じことがいえる、というわけです。


例えば、小売業を営む役員が店舗デザイン等を考慮するとき
店舗に来る客層は雑誌の「リンネル」をイメージして、と言われても
リンネルって何よ?という話になっては、アウトプットは
役員として思ってもみなかったものであったり、もしくは良し悪しが分からないものになる確率が高いでしょう。

であれば、戦略やアカウンティングなど勉強して身に付けたわけですから
デザインというもの、センスというものも、知識として学ぶ必要がある、ということです。

センス、というと天性のものを僕らはついつい想像してしまいますが
そうではなく、知識の積み重ねなのだ、と。

沢山の知識、例えばデザイナー名でもいいでしょうし
建築家を良く知っているなどすれば、何かの時に
◯◯さんっぽいやつを基調に、とか話を始めれば
大枠を外すことはないでしょうし、知れば知るほど
ポイントが分かってくる、つまりセンスある状態になるわけです。


そして、技術で大きく差が付きにくく、質の高いものが出来上がる現代において、何をもって差別化を図っていくのか?どう、顧客に訴えるのか?
となると、デザインに行き当たるわけです。

なぜなら、残念なデザインが世に溢れているから。

この辺りは、水野さんの著書を読むと良く理解出来るでしょう。

センスは知識からはじまる/朝日新聞出版
¥1,512
Amazon.co.jp


当たり前なのですが、結局はどこまで行っても勉強に終わりはないのと、時間が全く足りないな!と日々増えていく学ばなければいけない領域に対して、焦るばかりなのでした…苦笑い
どうしても続きが気になって、人生で初めて漫画の電子書籍を購入してみました苦笑い

つい先日、Amazonの戦略となぜ本なのか?という話を学んだばかりで
ネットとリアルの戦略の違いについて唸るばかりだったのですが
言われてみれば、電子書籍でのマンガは持っていないな、とふと思い
また続きがたまたま気になったのと、当然卸などを介していないために
金額も紙の書籍より安いので、衝動的に買ってしまいました。


電子化されたビジネス書は、何冊も読んでいて
こちらは気になる所に戻ってしまうと、途中読みの場合には
また続きに戻るのが面倒、という不便さがありました。
(多分、栞とか使えばいいのでしょうが、気になったポイントはふと思いつく…)

ただ、本棚を物理的に占拠しないという点や
手軽に持ち運べるという点では、結構重宝するなぁといった感じだったので
マンガも同じような感じだろう、と想定していたのですが
やはり、マンガであろうと小説であろうとビジネス書であろうと
重要なのは、その内容、中身が与えてくれるものであって
電子書籍になったマンガで違和感を感じたのは見開きでした。


ドーーン、とページを跨いだシーンがあると
iPadで1ページ分しか反映させていないので、え、なにこれ?となって
今まで読んでいた臨場感が損なわれてしまいます。

かといって、iPadを横にして常に見開きで見続けると
今度はコマの小ささが気になってしまって、見えづらいという事態に。

結局、iPadを縦に戻すと、また臨場感が損なわれるという堂々巡り苦笑い


本は中身が重要なのであって、その中身に少しでも影響があること
例えば落丁とかがあると、盛り上がった気分も失せてしまいます。

それに、2ページに渡る見開きがあるシーンというのは
当然ながらそれなりに盛り上がっている重要な見せ場なわけです。

それが、反映されない、されにくいとなると与える印象も変わってきてしまい
なんだかガッカリもしてしまうわけです。

しかし、時間帯を気にせずに購入できるっていうのは魅力なんですが
この読み方の辺りに慣れるか、少し改善されれば
もっと活用されるような気がするのですが、単に気にしすぎかもしれませんね苦笑
ここ最近で、立て続けに「時代」「年代」について全く違う
いくつかの方向から同じような話を聞く機会がありました。

ひとつはお客様から、もう一つは友人から、もう一つはGLOBISの講師から。


懇意にしてもらっているお客様と、先日会食の席で話をしていて
相手も社長ですから、社長業という職位、職業についての話になりました。

年上の方ですから、バブルを経験されている方で
僕は今年で40歳になりますから、バブルの煽りを受けた世代。

言ってしまえば、1番不遇だった、いわゆる失われた20年と言われる
その世代の当人たちにとっては、なにそれ、何が失われたっていうの?
と問い返したくなるほどの名称の世代なわけです。


で、現代になっての社長業というのは中々に大変なものだ、と。

いわゆる高度成長期の社長業は、それほど大変ではなく
全方位的に考えたり、全ての能力にある程度の知見が必要かといえばそうではなく
時代背景も勝手に売れていく時代だからこそ
一芸に秀でていたり、極端な話、ゴマすりだけで出世できた年代だったのだ、と。

実際にゴマすりだけで出世だったかどうかは分かりませんが
バブル以前、高度成長期を分析するときには
コトラーが言う所のまだまだマーケティング1.0の時代、製品主導で
確かに、緻密な戦略や顧客分析などしなくても
社会的価値とか精神的価値を考えずとも、グングン成長した年代ですから
当然ながら求められる能力は、多岐には渡っていないわけです。

この辺りの年代の方は、パワーも現時点でもバリバリある方が多く
生産性を高く!というほど時間の密度を高めての仕事量ではなかったから
今もパワーがバリバリあるんじゃないか?と話にあがったほど
言ってしまえば、おいしかった世代なのかもしれません。


その前の週には、2年ぶりくらいに大学時代の友人と会って
お互いの近況などを話している時に、ふと出たのが

「わたしたちの年代って、不遇じゃん」

という話でした。

これまた、自分たちの父母の体調が悪くなってきたという話から入り
モーレツ社員時代の父親たちと、今の自分たちって、という話から出た
年代の違いを感じる言葉でした。


どちらにおいても、前述のように「失われた20年」とか言われる世代で
何だよ、それって本当に不遇じゃないか、とか言いながら
新橋のガード下でクダを巻いて飲み歩いたり
自分たちの暮らしを考えて、これって上の世代がさあ、とか言ったり
こうだったら、◯◯であれば、とまさにタラレバ話を耳にすることも時々あります。

でもそれって、当たり前ですが何も変わらない、何も生まれない。
自分たちのせいじゃない、上の世代の負の遺産が回ってきただけだ
と言いながら、負の遺産を渡す相手は自分たちの子供だったりします。


そんな遺産、良い事なんて何もない、そんな中で
最後に、GLOBISの講師から授業の終わりに贈られた言葉が
次のような内容でした。


今、まさに働き盛りの最前線、フロントマンの30代~50代までの僕らが
負の遺産にクダを巻いて、俺のせいじゃないんだと言っても
後の世代の人たちは、その圧倒的に悪い国の状況において
働き盛りだった、最前線に立っていた僕らを恨むだろう。

自分たちのせいじゃないと思ってしまうかもしれないが
振り返って、後の時代に言われるのは、「あの年代は」になってしまう。
だからこそ、今のこの社会を、僕らが立ち向かって良くしよう。


大体、こんな内容でした。

ついつい、僕らは「理由」を求めて自分以外のものに責任を投げ
加害者から被害者に、自分の立ち位置を変えたがります。

目覚ましが壊れたからとか、電車が遅れたから、遅刻したんだと。
自分も可哀想なんだ、不遇なんだよ、と。

でもそんなことは、この社会をどうやって良くするのか?という「やり方」にとって
何の役にも立たないのです。


どんな時代を作りたいのか、今を嘆くんじゃなくて、理由を探すんじゃなく
自分たちの手で、どうやって良くしようか?と考えて実現する。
そんな世代でありたい、大変だからこそ立ち向かっていきたいものです。
当社は決算月が6月で、7月からグループ全体で16期、社で4期目となりました笑

今期は外部環境が大きく変化してきている中で、内部変革と共に
短期目標をいかにクリアしていくか、が焦点となってきそうです。


そんな中で、先月下旬にグループのホールディングスにおける株主総会がありました。

非上場企業であれば、あまり関係がないかもしれない株主総会。
ですが、株主総会ではある事が決議されます。

そう、取締役の選任における決議です。


日本では終身雇用は既に無い!とは言いつつも
恐らく、通常働いている中ではそこまで終了について意識しないでしょうが
当たり前の話ですが、取締役は定款により長さに違いはありますが任期があります。

オーナー企業のオーナーならまだしも、そうでないならば
株主総会の決議をもって、次も続投か、それとも解任か、となるわけで
極論をいえば9月末の株主総会をもって、無職!にもなり得るわけです麦わら海賊団

代表取締役社長も、取締役であり株主総会で取締役として選任された後
会社の取締役で代表取締役社長の決定を行うわけですから
例外ではなく、該当する任期まで、となるわけで
永続的にそれが約束される立場ではないのが良くわかります。
(当たり前ですが雇用でもないので)


今期に関しても、継続して取締役となり代表取締役社長として
ベイシスアドバンスの会社経営を任される運びとなりました。

終わりを怯えているわけでは全くありませんが
常に崖っぷち、毎年背水の陣として経営に挑まねばなりません
それくらいの対応でなければいけない、とも感じています。

現場の作業実施や、実務自体をやることは少なくなりましたが
(それでもまだまだやってしまう自分がいますが…)
経営全体を考え、戦略を組み、外部環境との整合性を取りながら
つねに人的ネットワークを広げて、最適な打ち手を考えて打ち出す。

それを真摯に、任期内でやり切ることが役員でしょうし
誰が何をしようとも、誰のせいでもない、全て社長のせいなのです。


明確な責任とその範囲、期間の元に経営を任されている
その重みこそが役員が背負わなければいけないものでしょう。

それが偉いとかそういうわけではなく
普段、実際には意識しない「自分の期限」というものについて
企業の平均寿命が20年を切った今、今一度考えてみて

何を果たすべきか?
言われたことだけを行うのか?
プラスアルファの価値を提供するために尽くすのか?
更なるレベルアップを目指すのか?


既に役員だから、とか関係なく誰もがそう考えると
より成果に繋がるだけではなく、自分自身の糧になるに違いありません。

来年も同じ環境にいれる、とは誰も保証はしないのですから。


ぜひ、長期的ビジョン、目標を元に一年という期間で短期目標を立て
期限として取り組み、力の限りを尽くすことをオススメします顔
くさった死体、ドラクエ世代なら間違いなく知っているモンスター。
でも、気付いたら僕らは「くさった死体」になっていないだろうか?くさったしたい

先日、グループ代表を含めて、懇親会の機会があったのですが
そこで話になったのが、このくさった死体、リビングデッド。


シリコンバレーでは、無数の会社が起業していき、そして倒産していく。
もちろん、ガレージで始めたヒューレットパッカードやアップルのように
世界に革新を起こすような企業も、多く出て行くけれども
当たり前のように倒産する企業もあるのだ。


でも、リビングデッドは倒産する企業のことを指すのではないという。

現地で、世界に革新も与えられず、かといって倒産することもなく
中途半端に、中途半端な規模で、生き永らえている企業のことを
リビングデッド、生ける屍、と呼ぶのだというくさったしたい

お前らは果てなき挑戦もせず、革新を起こさず
前のめりで倒れることもなく、かといって何か成すべきでもない。
そんな企業はシリコンバレー発の企業に向かない、ということなのだろう。


さて、戻って懇親会での話。

いま僕らは、このリビングデッド
ドラクエ世代に懐かしい「くさった死体」になっていないだろうか?

会社は食べていかねばならない。
食べるためだけに、本来ワクワクもしない仕事を行い
楽しむこともなく、社会に貢献することもない。

でも、社員が多くなってくると、当然彼らの生活もあるから守らねばならない。
会社を簡単に倒産させるわけにはいかない、食べねばならないのだ。

食べるためだけに、事業を存続させる会社だったとしたら
それは本当に、社員の幸福を考えた会社なのだろうか?
一体、その会社は何のために、なぜ、存在しているのだろうか?
更に言えば、そこで働いている社員の集合体が会社なのだから
そこで働く社員は、食べるためだけに働いていて幸せなのだろうか?
なぜ、なんのために、働いているのだろうか?

それはすなわち、人生の目的や使命、志に向かっているのか?!


そう思うと、ふと僕は前職は自分自身が「くさった死体」だったことを思い出す。

意味や意図もなく働くから、目的や目標も当然ない。
ただ、食べるためだけに働いていて、面白くもないと考えながら
刹那的な楽しさだけを追い求めて、虚しさだけが残っていた。

あの時期は本当に辛かったし、最も戻りたくない時期だ。
誰かの歌じゃないけれど、死んでるみたいに生きていたのだ。


また話は戻って、では僕はどうしたかったのか?
そんなくさった死体を作りたくない、または蘇生させたいのだ。
(ザオリクをかけてしまうと、逆に死にそうだと考えちゃうけど…)

それはつまり、会社自体がワクワクして、楽しめて
社会に貢献する事業を営むことに他ならない。

自分たちが価値を生み出す、またはその助力を行うことで
多くの人の幸福につながる、デファクトスタンダードになる。

そんな事業を行う会社って、やっぱり僕は最高にワクワクするし
そこで働く社員が、その思いで働き出すと、もっと最高にワクワクするのだ。


振り返って、グループ代表との話は
僕らの会社は、くさった死体になっていないだろうか?、という事だった。

それはつまり、そういったことなのだ。


くさった死体にはならない、それが僕らの決意表明に他ならない。
僕らの事業は、通信インフラですから基本的に固めの印象の会社が多いです。

そんな中で、当社の社風、そこで働く社員を気に入って頂き
また、僕らもお客様としても、お客様を超えるパートナーとしても
非常に親しくしてもらっている、同業種での企業様と先日、意見交換会をしました顔


停滞はすなわち、衰退を迎え会社の倒産につながると思ってますので
僕らベイシスグループは、常にチャレンジし続けて新規事業などに取り組んでいます。
もちろん、失敗も数えられないほど沢山していますが…苦笑い

その甲斐あって、ベイシスグループでは

・ホワイトスペースを活用したエリア放送
・BLEを活用したBeaconによるソリューション
・スマートメーター事業


などの新規事業が昨年度から開始し、なんとか進めているところです。


通信インフラ業界にて、同様な志を持ってイノベーションを自社に起こそう!
と、その会社も思っていたようで、同じようにイノベーティブな事業創出を模索しており
現在、なんとか離陸したベイシスグループの事業について
どのような事業なのか?を、お互いの新規事業についてプレゼンしながら
そのアプローチ、事業内容や発想に刺激を受ける意見交換会でした。

当社もあまり隠すタイプの会社ではないのですが
ここまで現状について、意見交換を行える会社同士は珍しいのではないでしょうか?


しかし、こういった意見交換や外部との打ち合わせがなければ
温めている、または進めている事業の相乗効果が見つかって手伝ってもらえるとか
なにか面白くなりそうなモノや人を紹介してもらえるとか
そういった事は起こりませんし、外部だからこそ新しい風が吹く
これまでの経験で確信しています。


実際に、意見交換会を終えて、両社とも大変刺激になったようで
自分たちで業界を更に盛り上げていこう!と双方に決意しながらも
両社がより一層、発展していければと心から思いました。

お客様と、更に言えば業界内の競合にも関わらず(あまり被ってませんが)
こういった関係になれるのは、社風、理念が似ているからでしょう。

これからも、こうやって共に刺激していきたいです顔
一般的に、夏季休暇の日程が多いと思いますが、「お盆」の話。


ちょうど「死生観」と向き合う機会がここ最近あったのですが
仲間内でも、同じように死生観と向き合う話が近況として聞くことが多く
まさに、「お盆」という期間が持つパワーだったのかもしれません。


僕の実家では、親戚一同が集まる、ということはありませんが
嫁と実家が同じ町なので、家族全員で帰省をすることが多いですが
今年は仕事も立て込んでいたので、先に帰省してもらい迎えに行くだけの帰省でした。

そんな中で、朝5時にふと起きて思い立ち、お墓参りに行ってきました。

お墓参りの際には、毎年必ず2つのお墓参りをします。

一つは、祖父母が眠るお墓に。
もう一つは、大事な人のお墓に。

お墓参りをすると、死と向き合う形で自分自身の「生」が投影されます。

例えば、毎日を目一杯生きよう、と決意することだったり
一年の報告から、自分自身の人生を噛みしめてみたり
普段は考えない、生と死について強制的に考える期間といえるのだと思うのです。


で、そんな期間、時期、そもそもそういった考え方というのは凄く大切で
それは言わずとも、お墓参りをすれば湧いてくる気持ちであったり
分かることであったりするのかなぁ、とも思うのですが
死や生と向き合うことは、自分の人生の歩き方、生き方に向き合うことであり
いま、この瞬間に自分の志と向き合っているのか?その道を歩んでいるのか?
すなわち、働くことの目的や自分にとっての意味
そこに対しての現在の自分や、まさに使命といった事に向き合う事でしょう。


大きく言わずとも、一日一日を自分を騙さずに真っ当に過ごしているか?
一生懸命やれているか?そういったことに繋がる、向き合う事でしょう。

急に安っぽくなってしまいそうですが、スティーブジョブスの名言

「今日が人生最後の日だとしたら
 私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか?」


この言葉と同意義であり、ジョブスは毎日お墓参りをしていたかのように
毎日、この言葉を自分に語りかけることで
自分の生き方を問うていたのかもしれません。


普段は意識しない、「死」というものを考える期間、場によって
自分自身の生、命、生き方を強烈に問われているのではないか?
そんな事を考えながら、兎に角、今日と明日を目一杯使おう
そう思いながら、今年のお墓参りを終えてきました。

お墓参りをした人たちのことを、毎日ふと思うことで
僕の中で生き方を問う、そんなスイッチにさせてもらおうと思います顔