○神さま!。どうか、わたしに目をください!                                                
                                                                                                                   あれは、ずいぶん昔のことでした。 わたしが多くのなかま達と共に太古の海に生まれて、 毎日、波にもまれ、潮に流され、ただ、自然に運を任せて生きておりました。 波任せ、流れ任せの生き方と聞けば、 なんとのんびり気ままな生き方なんだろうと 思われるでしょうけど、 実を申せば、 毎日が不安で、怖くて、生きた心地がしないという暮らしが続いているんです。 そして、最後は誰かに飲み込まれて、 そのおなかの中で人生が終わる運命なのでしょう。 そうです? 怖い話でしょう。たまらなく悲しい話なんです。 神様に見はなされた可哀想なわたし達なんです。 この広い大きな海の中で、 わたしたちを一口で呑み込んでしまう恐ろしい生き物たちが横行している、 この大海に生きるわたし達に、どうか、 どうか、やつらの姿や影が映る眼を与えて下さい!!。 かよわい、わたし達が、彼らが近づいてくる前に身を隠す時間を持てるように、 わたし達に眼を下さい。 どうか、どうか、わたし達に眼を!!。 わたし達は、お願い、お願いしました。 毎日、毎日、神様にお願いお願いしました。 そして、ある日、透き通ったからだの膜に、魔物の影が映るのが分かりました!。 とうとう、願いが叶って、眼が出来たんです。  世界中に、生き物たちが溢れていて、 みんなが神様にお願い事が多すぎて、それに、神様だって忙しすぎて、 なかなか、わたし達の声も、 神様の耳には届きにくくって、 でも、  まいにち、まいにち、おねがい、お願い、続けていれば、 いつかはきっと、 神様が気づいてくれて、 そして、願いが叶うものなんですねえ。  ありがとう神様! わたし達に眼をありがとう!。


○茶道の「一期一会」について思う
                                                                             
 人と人の心が同化する時間はあまり長くない方がいい。
 同じく、同居する空間も狭い程いい。
 人と人が同じ空間に集い、無心に一つの世界をつくる時、
 人の心がばらけないように、その空間には、人の心を奪う印象の強いものは、
 一つだけにした方がよい。
 故に、茶室の路地には、
 美を競うような、艶やかに咲く花が見えないのかも知れない。

 茶室の、路地の待合に座して、
 亭主がたてる箒の気配を感じながら、出迎を待つ、
 心をととのえ、蹲(つくばい)に寄り、
 躙口(にじりぐち)から無二の世界へ、
 身体を縮めて静かに入る閉ざされた別世界。
 そこにあるのは、茶室の狭い空間に、
 人の手によって丹念に作り上げられた優れた文物。
 厳選された材料で、素朴につくられた茶室は無論、床の間の書画、
 融け行く炉の炭までも、
 茶の湯の作法に使われる数々の道具の、行き過ぎない完成された美しさ。
 その中に在って、
 自然がつくった活きている「いのち」の美しさを、人の心に訴えるのは、
 床柱の素朴な花器に投げ入れられた、たよやかな一輪の花。
  この小宇宙のような空間に、
 生きているいのちの美しさを見せているのは、
 この花。一輪だけである。
  閑静で、贅沢で、高貴で素朴な路地も、
 この一輪の花の、いのちの持つ、深い気高さを称える役を買っている。
 
 茶人たちが行う茶会とは、
 ただ、親しい人と人とが集い、
 茶を飲む会とは、似てもつかない異次元の世界である。
 茶会は、
 人と人とが歩み寄り、譲り合って和やかさを演出する和の会ではない。
 ここでは、人が人に妥協する思考の存在を認めない。
 また、その必要が無い。
 いくつかの心といのちを、閉ざされた異次元の空間の中で、
 器の水が一滴一滴、したたり落ちて、消えゆくように、
 燭台の灯火(ともしび)がこの小空間を照らしている限られた時間の中で、
 厳格に定められた作法と、
  研ぎ澄まされた感性と、
 この幽玄な小宇宙の時間の中に、
 茶人たちの心が、空間と時間に同化して、
 ひとつのこころ、一つの世界を完成させる。
 それはまるで、神仏の前で厳粛な儀式を行い、説話を聞き、声を揃えて礼拝し、
 心を一つに融合して行く宗教の世界とも目的を同じくするが、
 茶の湯の世界の、個々の人間に課せられる求道の意思も、
 究極の、厳しい集中力を必要とする。

 茶人たちは、
 一期一会のその一刻を、
 人と自然と、人と人と、その心が一つに同化した世界に融合し、
 有終の幕が下りるまで、その時間の一滴たりとも無駄にせずに昇華する。
 そのこころの境地に達するための精進は、
 まさに、武士たちの真剣勝負に向かう姿勢とも格を同じくする。
 その完成された一つの世界を作り出すために、
 厳しい作法があり、匠たちの精魂の結晶たる茶室と文物があり、
 繊細に造り上げられた路地の、閉ざされた深い空間があり、
 その路地も、
 人間の暮らす娑婆世界と茶の湯の世界との、隔絶の大役を受け持っている。
                  
 茶人たちは、
 この小さな茶室の空間に、大きな宇宙を作り出し、そこに遊ぶ。
 茶の湯の道人たちは、人のつくった小さな茶椀の中に、
 人の心が作り出す大きな世界を堪能する。
 この人と過ごす、この日、この刻(とき)は、一生に一度しか無い。
 このかけがいの無い大切な一刻(ひととき)を、一秒を、人生の一滴とみて、
 感慨深く大事に過ごす。
 その方法を完成させたのが、茶の湯の作法で有り、
 「一期一会」の、茶道の心であろうと感じた次第である。

 これはあくまでも、門外漢の私の感じた「茶の湯」の印象である。
 
                    2015.10.27.                            津島ぜんじん
〇ある住職の深刻な悩み

   こんな田舎町の古い寺でも、住職の跡取りともなれば、それなりに貰う嫁は誰でもよいと言うものではない。
 寺の住職の妻になる者が「私は無神論者です」と、胸を張って言い切り、「この世に物理的に存在しない虚像に、もっともらしく礼拝したり、儀式を行うなどナンセンスよ。私にはとても出来ないこと。ムリ、ムリ。」と言い、「あなたはお坊さんだから、あなたがするのはかまわない。私は止めないわ。だって、それはあなたの職業なんですもの。でもね、私はあなたのお母様みたいに住職と一緒に寺の中に居住し、朝は町の人が起きる前に起き、仏様のお膳を作り、町の人々に聞こえるように鳴り物を鳴らして音を出しながら祭壇に向かって礼拝し、それから家族の食事をつくり、大きな建物のお掃除、洗濯、そのうち檀家さんたちがお参りに来ればそれの挨拶、御用の受け答えもしなければならず、プライベートも無い生活。家族と同居するだけでもたくさんなのに、檀家さんのお世話までなど、とんでもないわ。だめ、だめ。私はごめん。私たちはマンションに住んで、あなただけお寺に通勤して住職のお勤めをなさればよいのですわ。」などと、言う女に捕まったら百年の不作になると、心配していたが、まさに、その百年の不作がついに来てしまったのだ。  息子、すなわち将来この寺の住職になる長男は、もう結婚適齢期も過ぎ、そろそろ中年の顔になってきているのに、いまだに嫁を迎えられない。  その訳は、自分が嫁にしたいと思っている恋人が、「あの女だけは寺の嫁には迎えられない」と、両親に反対されているからだ。  息子は息子で、「あの女と一緒になれないならば嫁なんかいらない。一生結婚しなくてもかまわない!」と、譲らない。  息子を取り巻く彼の友人たちは、一様に口を揃えて息子に声援を送っている。「なぁに、親は子供の選ぶ相手はみな気に入らないもんさ。それでも、しまいにゃあ、みな結婚できてるよ。心配ないよ」とか、「結婚相手を決めるのは自分だ。親が結婚するんじゃないだろ」などと激励している。彼らはまた、子どもの頃から一緒に遊び、一緒に悪戯し、一緒に叱られ、一緒に逃げた思い出を共有する竹馬の友たちである。世代の異なる親たちの言い分より友の心情を重く受け止めている。  住職夫婦の心情もこれまた深刻である。息子は、親族、檀家のみんなから、寺の後継者として、祝福されて生まれてきた天からの授かりものである。得の高い僧侶に仕立てるために住職夫婦は格別大事に育ててきた。 その息子に虫が着いた!。しかも、特別悪い虫が着いた!。  その虫が悪いと決めつけるのは住職夫婦の立場から見ての感覚評価である。いま、恋の異次元空間に落ちている息子から見れば、その虫も、自分にとっては、かけがいの無い大事な存在なのである。   いま、ここで、いちど住職夫婦の眼から、「悪い虫」と呼ばれる息子の恋人を見てみよう。 まず、息子の話から得た情報は、 その女の生活環境は、離婚してアパート暮らしをしている母と同居している。いわゆる母子家庭である。本人は夜だけ、飲食店で働いている。 住職夫婦の印象は、 彼女の外見を、日の高い時刻に近くで観察すれば、顔の造りは一見可愛い顔をしているが、育った環境が悪かったのか美人ではあるが貧相である。女の歳は、すでに三十路の半ばに差し掛かり、歳は息子と同年くらいに見える。職業上必要なのか、風体はミニスカートに金色に染めた頭髪、服装は十台の女の子のなりをして、見方によっては、まるで古狐が化け損ねた異界の魔物のように見える。 住職夫婦の許せない風体の一つは、二の腕に見える大きな文字の刺青である。この刺青は思春期の子どもたちが反抗期におもしろ半分に悪戯にいれた小さなタトウなどという程度のものではない。この本格的な「入れ墨」は、いわゆる「やくざ者」と呼ばれる反社会的職業の世界に籍を置く、または、その世界に棲んで居た証でもある。町の大衆銭湯にさえ「刺青のある者は入場禁止」と断られる対象になる規模である。 本格的な本業の「入れ墨」は、これを入れる時は、ただ痛い苦しいというばかりではない。もう、「これを入れたら、二度と堅気の世界には戻らないぞ」という覚悟を現したものである筈だ。また、同時に「私に近づく者は、肝を据えて覚悟決めて寄って来な!!ただで済むと思うなよ!」というメッセージを暗黙のうちに示している。 何れにしても、この女には、近づいたらただでは済まぬ雰囲気がある。 その雰囲気を裏付けるように、この女には底知れない「ふてぶてしさ」がある。息子には「なよなよ」とした反面しか見せてはいないが、住職夫婦の眼からは気味悪いほど開き直った心底が見えるのである。例えば、週末は息子の部屋に入り込み、夜を過ごし、息子が仕事で出かけた後も部屋に残り、午前中はベッドから出ず、家族が出かけて誰も居ない庫裡(すまい)のなかを徘徊し、風呂に入るなど、普通の若い女性には到底出来得ないことが普通に出来る不可解さがある。 さらに決定的な欠陥を並ばれば、この女には子宮が無い。 息子の話によれば、ガンに冒されたので摘出したのだという。いまでも、時々は大学病院に定期検診しに通っているという。道理で体が異常にやせている。やせているから容姿は良く見えるのだが、やはり、肌には艶が無く、顔に血の気が無く、病持ちの感は否めない。 息子のような性格の男は、このタイプの女に弱い。男気をかき立てられるのである。自分が守ってやらなければとの同情が、恋愛感情と混同して自分の立場も責任も忘れ異次元の世界を彷徨っている。 しかし、恋の「いのち」は、賞味期限が思ったよりも早く来る。その感情というものは時間の経過に希釈されてだんだん薄くなっていく、男の前に好みのタイプの健康な若い女性が現れた時、この不健康な恋愛感情の世界に、エピローグの「蛍の光」のバックグランドミュージカルが静かに流れ、フィナーレの感情が男の体を包み込んでくる。 そうなると、男の中でもう一人の男が目を覚まし、疲れた女の醜悪な部分が眼に見えてくる。 そうなるともう、女が何を言おうと耳に入らない。いわゆる女の持つ感情制御リモコンの電波が死にかけているのである。男が感応する電波は、もう若い娘の周波数に切り替わり同調し始めている。一刻も一緒に居たくない。一瞬見ることさえしたくない。気持ちの離れていく男の心理は、もうどうすることも出来なくなる。 こんな、制御不能に陥らないように、女は常に男の心理状態を観察し、制御している。 そのために、おんなは他の女を寄せ付けないために手を尽くす。自分の男に近づいてくる若い女に、自分はこの男のただ一人の女であることをアピールする。そのためには手段を選ばない。極道の看板「入れ墨」が働くのもこの時である。 男の気持ちが離れだし、男を手玉に取るベテランのリモコンも利かなくなる事態が起きると、女は急に泣き落としの過程に入る。 あなたに捨てられたら、わたしはどうなってしまうのか。寂しそうに弱々しく哀れを誘い、さめざめと泣く。 それでも男の気持ちが自分に向いて来ないと判断した時、女の行動は分かれる。 心の若い健康な女性ほど原因の分からない離別に混乱し、精神にダメージを受け、重い時には鬱へと移行していく。 または、男の行動圏から離れられず未練な行動をとり、男がますます逃げ回る。というパターンに入る。これは女性が初心で純情な場合である。 一番恐ろしいのは、自分を捨てたらどうなるか?。という脅迫型のパターンである。最初は弱い女で同情を、駄目なら付きまとい男の生活に影響を与える。それも利かないと分かると、いよいよ、最終兵器自爆テロがある。というものである。 自爆テロと言っても、自爆する本人はいのちに別状が無い。元々、傷だらけの体である。瀕死の重傷を受けるのはもっぱら騙される男の方だけである。 話は戻るが、この寺の息子の場合、男と女の間にあまりに大きな精神年齢の差がある。これは男女関係についての知識と経験についてのみ、比較しての話である。 勿論、女は夜の商売、母親のアドバイス、本人の男性経験、やくざ家業の体験、(案の定、この女には犯罪歴があった)などなど、寺の息子が生きてきた世界とは似てもつかない世界に生きている。 女は、自分が妊娠出来ないせいか、息子に「自分は子どもが嫌いだから要らない」と言わせている。そんなものではない。跡取りには跡取りを作る義務がある。惚れた女が作れないからと言って、作らないで居ても良いというものではない。 息子はすっかり自己中心的人間に化けてしまってる。女は、息子が親に責められ気が変わるのを回避するため、息子に「あの女は好みではない。結婚はする気はない」などと言い出させ始めた。勿論、女の狡猾な戦略である。「親の寿命はあと1,2年、ぬらりくらりとこの時を凌げばよい」との魂胆が見え見えである。 しかし、悲しいかな、したたかな女狐の方が一枚上手であった。
 息子がこの女と知り合ったのは夜の町である。友だちと飲みに行った店で、この女の眼に留まったのが運の尽きであった。まんまと海千山千の夜の女狐にたぶらかされ、捉まってしまった。  捉まったという表現をするのは、最初は色仕掛けで、引き止めてからは、同情を買い、恋に落とし、前述の対寺院対策を、息子の未熟な脳に浸透させていったのである。
 とうとう、破綻の時が来た。親は涙を呑んで住職の役を他人に譲って寺を出る覚悟を決めた。女も思惑通りに息子に責任を取らせる目的が達成できず。一銭にもならずに「たらし込み作戦」は 失敗した。 スキャンダルを創り上げれ、檀家に迷惑を掛けた息子共々、住職夫婦も敗北者として、この寺を去る日がやってきた。この戦いに勝者はいなかった。 昔から、よくある話、男と女の、汚れた戦いの物語である。

○八戸美術館の「岩合光昭ねこ写真展」                             
  この「特別展」を企画された美術館の学芸員さん。市民の皆さんへの年末年始の贈り物に、このメルヘンとファンタスティックと可愛らしさの融合した夢を送られたことに敬意と感謝を申しあげます。 そして、この「特別展」の主役、世界中のねこたちの、躍動するいのちをそのまま捉えた岩合先生の映像は、まさに子どもたちからお年寄りまで、その心を潤し、無垢な世界へと誘います。まさに、夢をかたちにされたものです。 私どもに与えられた役割の展示業務は、工期期限一日の余裕を残してどうやら間に合いました。私の奥さん。がんばりました。 この街の特別イベントに  市内の協賛してくださった(はっち、青森銀行、金入文具店など)店舗のイントランスやウインドウには、大きなねこの足跡ステッカーが張り出され、年末の3色の光の輝く通りが、可愛くて愉快な街に変わりました。 そんな中、12月20日、特別展「岩合光昭ねこ写真展」堂々のオープンです。展示業務では、学芸員の方々の適切なご指導に感謝いたします。  岩合先生の集められた、世界中のねこたちが八戸の街の真ん中に集合いたしました。 文化の香る街、八戸の年末年始に、一層の明るい光を加えてくださいました。先生、ありがとうございました。
 ○抱き癖が着いた猫
 生まれながら、いたずら好きのやんちゃ坊主、ベートーベン(愛称はベン)が、家の外へ遊びに出て、何かしらのアクシデントに見舞われたらしく、瀕死の重傷を負い、上半身血まみれのボロ雑巾のようになって、よろよろと家の玄関口にたどり着いた事件が起きたのは三年前のことである。 おそらく、車にはねられたのであろう大変な大怪我であった。顔が曲がりあごが裂け、下あごの骨がいくつかに割れて顔の下半分の形が壊れていた。妻と息子はベンをバスタオルにくるみ「北里」へ運んだ。 通称「北里」は、隣の街にある北里大学獣医学部のことである。動物たちにとっては最高の救急機関である。 その時のベートーベンにとっては、北里にしか助かる道はなかったと、私たちは思っている。また、この大学が隣の街にあったことも幸運であったとしか云いようがない。 ベンの怪我は、あごが砕けては居たが胴体内臓のダメージが少なかった。そのため、今すぐ命に別状は無いようには思えたが、あれほどの怪我になると、口から物を食べることは出来ず、長い時間の苦痛の末に死を迎えることになる。それはまた、見ている方にも耐えがたい心痛を与えるものである。 ベンは、北里に運び込まれてそのまま入院となり、即日、整形と治療の外科手術が行われた。その後も3週間の内に、傷の回復を待っては整形手術を繰り返され、顔の形状も体力も順調に回復していった。 ベンのあごの骨は金属の芯で繋がれ、最初、まったく噛み合わなかった上下の歯も、再手術を重ねて位置が合ってきた。顔の歪みも矯正されて、元のベンの顔が戻ってきた。我が家では、「北里」を、さすが天下一の獣医の大学と絶賛している。
 一月後、ベンがいよいよ「北里」を退院して我が家に帰って来た。 今までは何日置きかに一回、妻か息子が面会に行ったが、ベンは案外獣医の先生方には人気があったらしい。それもあってかベンには、病院もなかなか居心地が良さそうであったという。  家へ帰ってきたベンには、まだ、家庭介護が必要で、自分の足で傷口に触れられないようにするためと、餌や食物を口に入れさせないために、首にエリマキトカゲのようなラッパ状のプラスチック板が装着され、患部である顔面が保護されていた。 その格好が兄弟たちには異様な姿に見えるのだろう、シューベルトもバッハも、雌のウインクとサラまでもが、遠巻きに見て、ベンが寄っていくと逃げ回った。 退院してからも、ベンの口の術後患部は毎日消毒しなければならなかった。それにまだ、口からの食事は禁止され、胃袋から背中まで埋め込まれたビニールパイプが、後足も届かない背骨の上にあるバルブから流動食を注射器で注入して栄養補給するのであるが、この給餌と消毒の作業は、妻と息子の2人の日課となっていた。 ベンの栄養状態は良好だったが、ベン本人は口から食べる餌を欲しがった。しかし、なにせ、首に巻き付いているラッパ状のガードが邪魔で口からは食べれない。食べ物が欲しくて家人の後を着いて歩いて食べ物をねだる。そのベンの態度が可愛くて哀れで、つい、抱き上げて撫でてやって機嫌をとる。食事の時も、栄養注入と消毒のため2人係りで世話を焼く。夜、寝るときも、妻の隣で、妻に守られる形で妻に撫でられながら寝る。家の中では、ベンが特別扱いで、チヤホヤされながら、深窓のお嬢様のように、大事に大事にされ、過保護に過ごす。こんな生活が、北里の先生が首の襟巻きラッパのガード板を外してくださるまで続いた。
 猫にも一つの命に一つづつ、持って生まれた個性がある。同じ環境で育てても、同じ性格には育たない。ベンは変わった命を持っている。もともと猫らしくない性格ではあったが、長い時間を掛けて甘やかされ、猫の歳ではもう後期高齢者の領域なのに、妻には、まるで人間の2歳児のような行動を見せる「甘え猫」に育ち、それはまるで、人間の幼児の魂が乗り移ったかのように、すっかり「抱き癖」が付いてしまっていた。 そのベンは毎日、妻の帰宅を待って側に寄り、付き纏い、抱き上げ抱きしめて上げるまで側を離れず「だっこ」をねだるのが習慣になっている。

○ 会社では誰が一番偉いのか?

 わたしの会社を、わたしは「我が社」と呼んでいる。別にこだわる訳ではないのだが、「我が社」で一番偉いのは「社長」である。その「社長」は「わたし」である。だから、「我が社」では、「わたし」が一番偉いのである。少なくても、日本の法律と慣習では、そうなっている筈である。
 しかし、その一番偉いわたしを、あごで使う者がいる。会長でもない。株主でも無い。 元はアシスタントであった現在の妻である。この社内人事の実質的上下反転関係に対して、さしもの温厚なわたしも、たまには、腹に据えかねて、反抗を試みることがある。
「おい!、この会社の社長は、わたしだ!!。わたしは法務局も認めるこの会社の「代表取締役」なのだぞ!!」
それに対して妻はけろりと、
「そうよ。あなたはこの会社の代表取締役。わたしは「あなた専門取締役」なの。」
と言い、
「あなたは、この会社の全責任者なのよ。だから、誰よりも早く出社して、社員が全員退社してから、火の始末を見届けて、戸締まりを確認してから帰る責任重い人なんよ。だから、「代表戸締まり役」と言うんじゃない。」
 いやはや、女の口にはかなわない。女が弱いのは他人のうちだ。息子にもちゃんと教育しておこう。
○ 「おかえりにゃあさい」
 我が家の5匹のねこたちは、家人が出社した後、ひたすら、家族の帰宅を待つ謂わば「鍵っ子」になっている。 夕刻、妻が帰宅すると、ベンは、妻の車のエンジン音を聞き分けて、いち早く妻の部屋から飛び出し、外に出て、妻が車のドアを開くときには。すでに足もとに来ていて「にゃあ!」と出迎えている。 妻が車を止める場所は玄関の前だが、わたしと息子の駐車場所は玄関から35m程離れている。それでも、たまには、シュウがわたしの車の音を聞きつけて、家の前から「にゃあ、」「にゃあ」と叫びながら、車の側まで走って来て、わたしを出迎えてくれたりする。
 家庭ゴミは、収集日の前の晩のうちに町内の収集箱に入れに行くのが我が家の習慣になっている。朝は出勤する前の準備に追われて時間がない。そのため、夕方帰宅して一番最初の家庭作業が、ゴミを出す作業となるのである。  妻がゴミ袋を両手に提げて外へ出ると、ベンは決まって妻と一緒に外へ出る。そこにシュウやサラもいると、みんな一緒に、妻の後になり先になりしてゴミの収集箱までの往復160mの道中行列に参加する。  何のことは無い。ただゴミを置いて来るというだけの「道行き」であるが、猫たちはめいめいが自由に、先に行って立ち止まり、後に残って追いかけて来る。その度、「にゃあ、にゃあ」と、妻に声をかけながらコミニケーションを欠かさない。妻にとってもそれが日常の癒やしになっているようである。 
141014
○わたしのブログを読んでくださった方へ、お詫びとお礼を、  一方通行のブログから進化したい。息子のお下がりのパソコンにワープロの一太郎を入れて貰い、それを使って文章を作り、娘からセットして貰ったアメーバーブログに載せるボタンを教えて貰い、どうやらネットに載せられるところまで来て、それを続けて参りましたが、いまだに、それ以上の進化が見られません。 わたしの必死で作った劣文をたまたま読んでくださる方が居て、わたしにコメントをくださったり、「読んだよ」とサインを送って下さる方が、毎日のようにいらっしゃるのに、わたしがお返事をしようとすると、どこのボタンを間違えているのか、パソコンが、相手に届けられないと、文句を言います。 IDとかパスワードとか、何かが間違って居るのでしょうか?  高齢を言い訳にしているようで誠に情けないのですが、どうも、新しい機械に振り回されて居るようです。 折角、わたしにサインを送ってくださる方に、何の返答も出来ない自分に怒りを感じ、情けなさをに落ち込んでいます。 子どもたちに、助けを求めても、「年寄りに操作を教えるのは、大変だ。同じことを毎回、毎回くりかえさなければならないし、めんどくさいから、おやじのデーターを貰って.自分でやって上げる方がまだ楽だ。」と云われれば、毎日毎日同じことを頼めるわけじゃなし、「いいよ。自分で何とかやってみるから」と、いうしかなくて、また、パソコンと悪戦苦闘の格闘がはじまります。 それでも、たまに、うまくメッセージをくださった方と繋がることがございます。しかし、それはまれに偶然のことでありまして、その時の操作手順を記録している訳でもないので、また、同じように、上手くいくとは限らないのです。しかし、いつまでも甘えてはおれません。 必ず、皆さんと双方通信が出来るようになりますから、もし、わたしからアクションが届いた時にはなにとぞよろしくお願いいたします。                               2014.10.14.津島ぜんじん。
○嫌戦国家の国防新案 (国家間紛争抑止システム、その1)

 20XX年、我が国は、平和的国土防衛の一環として、手始めに、領海侵犯抑止システム、マクロファージ群団機構を始動さる決定をした。 
 マクロファージ群団とは、有機樹脂素材で成型され、その自然擬態形状と素材はレーダーにも目視にも捕らえにくい鰹大の魚形で、海中、海底付近を高速で自動遊走する侵犯抑止機器群である。 
 領海内に侵犯してくる外国艦艇または民間船の位置を捉え、その走行軌跡から進行先を割り出し、先回りして数個のマクロファージ群に依って包囲網を形成し、電波、音波を用い領海退去の警報を送る。
 領土侵犯の船、艦艇または移動偵察機器が警報を無視した場合は、さらに転覆警報を出す。それでも進行方向を領海外へ向けない場合は、密着樹脂ミサイルを発射、船底に粘着材を付着させる。この有機粘着体は日本が得意とする最先端科学の粋をゆく超高分子化学溶剤で、鋼鉄の数十倍の強さを持ち、船底に付着すれば、即時に分裂を始め、海水を媒体として膜状に広がって行き、開閉口に侵入浸透し、機動部に絡みつき可動部に浸透し、数10秒後に瞬間接着する。以後、この船舶艦艇または偵察機器の可動部はすべて外部から封印され操作不能、機能停止状態となる。その上、さらに数秒後、科学反応が始まり、膜の細胞内に取り込まれた海水が気化を始め気体体積が数百倍に膨張する。
 当然、船体または艦艇の底面に強大な浮力が生じ、本体は転覆し海上に浮遊する。もし、これが潜水艇ならば、悲惨なことにあらゆる開閉口が密閉され、搭乗員の船外退去は不可能になる。それは人間の生命を脅かし人権無視になるのではないかとの疑問が湧くであろうが、そうではない。本体は海上に浮いている。出入り口は密着され開くことは出来ないが、自らの意思で内部から船底に穴を開けて脱出できるから人命は損なわれない。日本人は戦闘能力を失った艦船搭乗員に危害を加えることはしない。ただし、侵犯目的で不法侵入した偵察機器、艦艇は没収する。また、領海侵犯の艦艇が、捕縛時に判断を誤り、慌てて攻撃態勢に入り、機能不能の兵器を作動させ、それによる自爆に至った場合の責任は侵入者側にある。それは泥棒が侵入した家の階段から足を踏み外して転落し骨折した損害賠償を家主に求めることが出来ないようなものである。また、マクロファージは完全自動ロボット機器で、人工知能を備え、IDの認識出来ない相手に拿捕された場合、自己判断で自爆する。マクロファージは500m以内にいるマクロファージと互いに位置や探査の情報を交換しながら遊走パトロールしている。また、同型のマクロファージの危難を救護し、仲間の力を借りる、あるいは力を貸す判断能力まで備わっている。 つまり、マクロファージの抑止力は、侵略しようとするものに多大な屈辱を与える機能を持つ故に、侵略者の領海侵犯を抑制する効果がある。日本の領海は、破壊能力を持たない平和的自動監視機械が領海を守っている。そこには人間の感情や駆け引き、個性的な決断などは入っていないから、国土防衛に神経をすり減らしストレスと戦う国防軍の指揮官の悩みを救う効果がある。
 この嫌戦防御システムの抑止力の効果を支えるものは、侵犯者の母国の屈辱と、国際諸国の侵犯者に向けられる厳しい判決の目である。
  捕まった侵入者側は、屈辱に逆上するであろう。しかし、不法侵入者に不服を申し立てる権利は国際法上も認められていない。所詮、他人の敷地に不法侵入する者に大義正論はないのだから。
 我が国は、嫌戦国家で国際紛争を自ら起こすことは絶対にしない。かといって領海侵犯してくる横暴な侵略行為も許したくはない。自国の国民が守り続けてきた領土が侵略されるのを涙を流して見ているだけでは情けない。「先祖から渡された我が領土は我らが守る。」これはわが国を母国とする愛国国民たちの一致した願望である。
 前政権の首相は大胆にも世界に向かって、軍事脅威を恐れず大胆な領有権の国有化を宣言した。それも不法な行動ではない。一国民の所有していた土地の権利を、国有化して国が領土の管理をし易くする目的でしたもので、これについては、外国に相談して決まるべきものでもないと、その時の首相は考えたのである。
 かねてから同島の領有権は、始めからあったと主張していた隣国は、わが国の政府に対し、声を荒げて恫喝し、大々的に同島付近の領海侵犯を反復し実効支配の形態を作るべく横暴な行動に出るようになった。
 元々、日本人は平和を愛する人種である。聖徳太子の時代から、敬愛する隣国の中国には人を送り、文化、儒教、仏教の平和思想を学んできた経緯がある。まさに、隣国は同じアジアの大屋根の下に暮らす家族親類、親兄弟、一族のような存在なのである。親子喧嘩、兄弟喧嘩、仲間内の喧嘩、「喧嘩」は平和思考の今の日本人にはそぐわない。かといって、横暴な侵犯行為を許して良いというものでもない。
 今、わが国の為政者は思い出している。 鎌倉時代、北条政権が世界一の「元」(現在のモンゴル中国全土から朝鮮半島を含む大国)の従属命令にも、2度に亘る圧倒的に強大な軍船団の国土侵犯にも、断固として抵抗した状況と似た状況に追い込まれている。しかし、現代では「神風(安保)」の援軍は当てにしてはならないような気がするのは私一人でありましょうか?
 我が国の領海に、圧倒的軍事力を誇示する他国の艦艇が侵入して来た時はどうしますか?。
 敗戦国の我が国は、悲惨な戦争の恐怖で闘争心が萎縮してしまい。我が国の領海を侵犯してくる外国艦艇を阻止する手立ても気力も欠如していて、強力で傲慢な軍事帝国の無体な侵犯に翻弄されっぱなしの日本である。

 現代、世界中に生存する人間、高度に文明を発達させてきた各地の異民族たちは、地球上のあちこちで、なりふりかまわぬ領土の奪い合いを、古代から現在に至るまで延々と続けている。
 振興国は、長い間、自国内の経済立て直しに追われて外国への侵攻が、なりを潜めていたが、先進国の製造業界が低コスト生産地帯を求めて生産施設を新興国に移したことに依って、高度技術と経済力を手に入れ軍事大国に成長し、その力は、中世から彼らの遺伝子に潜んでいた領土拡大思想を目覚めさせた。
 戦争無き平和世界を志す我らは、武器を捨てた。
 しかし、武器を持たない国家にも侵略の手を緩めることを知らない新興諸国の強い決意を知った我らは、今、新たに領土の平和的防衛戦略を考案しなくてはならなくなった。
 日本は破壊兵器に対する防御システムの先端技術、各種センサー、高分子化学などの開発は得意な分野である。
 そして生まれたのが、この紛争抑止システム、マクロファージである。
 新興軍事大国から、まず狙われるのが、海洋圏域である。これまでは我が国の領海に侵入してくる外国艦艇を排除するべき有効な手立てが無かった。
 領海を侵犯されても、手を出せない。相手は軍事衝突をおこさせるためにあらゆる手段で挑発してくる。軍事衝突さえ起これば、領土に侵攻しそのまま実効支配の形を作ることができるからだ。
 領土侵犯してくる新興軍事大国は、我が国の同盟国に政治経済上で交流を深め、同国との紛争の発生に対する「介入の抑止政策」を執りながら、わが国の領土の瀬戸際侵犯を試みる。
 我々は、紛争が起こってしまってから安保条約を当てにしてははならない。我が国の同盟国は、「誰のためであっても血を流すことをしない」と云っている国を救うために、自らの国に不利益な戦争をして血を流してくれると思うのは少し虫がいい。領土防衛の責任は誰にあるのか?基本的には「自国の領土圏域は、まず自国の防衛力で守るのが基本」である。
 大国に領土を侵犯され、自国の防衛力で防ぎ切れない時、初めて同盟国が応援してくれるかも知れないが、最初から「私のために血を流すのはあなた。血を流さないで守って頂くのはわたし」では、如何なものか?
 同盟国にも、各々、国家や政府には事情があるものだ。そのことを念頭において、この平和的領土侵犯防止システムの非戦闘的能力を理解して頂きたいものである。
 「他国と絶対戦争をしない」という信念を変えられない我が国の領海を侵犯してくる侵略者を迎い撃つ侵入抑止システムの最前線に活動するのが、マクロファージ群団である。
 このマクロファージは、領海に侵入してくる侵入艦艇を破壊する兵器では無い。非戦闘機器であるから、ただ、侵入艦艇または偵察機器の機能を麻痺させ、攻撃機能を無能化し、機器の開閉口はすべて外部から密閉し、侵入物体の腹部に張り付いた有機樹脂の強力な浮上能力により、転覆姿勢で海上に浮遊させ侵入物体の拿捕を容易にさせる目的の機器である。勿論、マクロファージの外装は有機樹脂でソナーにもレーダーにも反応しない自然偽装の優れものである。
 傲慢で強大な軍事大国は、侵略の野望をむき出しに弱小国の領土を奪い取りにやって来る。そこには、如何なる反論批判も受け付けない無体な大義名分が掲げられている。
 そして、一旦、強奪すると決めたものは、決して諦めることは無い。必ず我がものにする。その目的だけは変わらない。
 その強奪の手法は、平時に小さな侵犯を繰り返す。そして国際諸国に対し経済援助や外交折衝等を通じて世論支援国を造りながら領有権を主張し続ける。
 ある時、侵犯された弱小国が対応を間違えて相手に小さな傷でも負わせたとき、待ってましたとこれ幸いに堂々と軍事作戦を展開させ、軍事的に制圧すると、もうそこは二度ととられた方の領民が足を踏み込めない聖域となる。
 
 圧倒的な体力と、強力な爪と牙とを持つ肉食獣に自分の体を狙われ、その攻撃力の射程に入ってしまったとき、隠れる場所が無い弱小な生き物に助かる道はあるのだろうか、トラやオオカミに睨まれたウサギやヒツジに、助かるすべがあるのだろうか? 
 ウサギが懇願する 「私はあなたに決して逆らいません。誓います。私にはあなたと戦う爪も牙もありません。私は戦いをしないと決めました。私はあなたと仲良くしたいのです。」 
 それを聞いて肉食獣は、 「ウン、ウン、そうか、そうか、おまえたちは二度と、牙を磨いたり爪を研ぐことをしてはならないのだ。オレたちとは違うんだからな。」 と、云いながら、ウサギを食べてしまうのです。つまり、肉食獣の「食べる」という意思は変わることはないのです。
 かつて、日本にもそうした傲慢な時代もあったと聞いています。
 明治新政府が、当時中国の属国だった武器を持たない琉球王国を突然占領し奪い取る。その時も、日本の政府は、琉球国民の同意を得ることもせず、琉球政府の意見などは無視しました。
 そのとき、琉球の同盟国、大国、清は日本との軍事衝突を回避し、国家間での対話に依る善後策を検討するだけで、琉球を助けることはしませんでした。
 大国同士の間では、たとえ同盟国のピンチでも、力の強いもの同士戦えば、互いに傷を受けなければならない。そんな戦いはしたくない筈である。そこで琉球王国の悲劇のような現象が起こってしまうのです。
 この事件一つを見ても、他国との同盟は必要であるが、もっとも大事なことは、国防は同盟国の軍事力に依存しているばかりではなく、その国の国民が「血を流しても命をかけても守り抜くぞ!」という強い信念を対外的に示すこと。現在の日本であれば、どこの国より優れた先進技術を持つ国になること。そして、我が国が独自に開発した最先端技術をもつ平和的非破壊抑止知能兵器群団を、防衛線内に十分配置しておくことが重要になってきました。しかも、外国の侵略に関しては、画期的な未来型防衛兵器を保有しているが、開発された理論や高度技術、その性能構造、基数などは国家の秘密保護法によって不明なこと。知れれば、対応策が研究され防衛力が無能になるからである。(反日、反戦の関係者からは、情報公開を盾に、国防軍事能力の開示を強く求めて来ることは予想されます)
 つまり、我が国の防衛は、他国の紛争挑発に乗らず、領土の侵犯を非軍事機器をもって抑止する。日本の領海防衛の最前線の戦略は、決して人間を殺害しない。侵略者に恥をかかせるだけの機器である。しかし、切り崩されて行く同盟国の防衛代理戦闘意欲を考える時、我が国は、何らかの、絶対的抑止力を持っていなければならないのは、誰でも感じ初めている昨今である。弱小国とはいえども、自分の国は自分の力で守り切らなければならなくなってくるのは当然の成り行きと言えるのだろう。

○猫語の話  猫にだってそれぞれの心があって、その心がそれぞれの性格を形成している。その性格が生活や習慣に表れてくる。それが個性であり、個性は生き物たちに平等に与えられた神様からの贈物である。 我が家の猫たちはみんな、自分の話す言葉は家族のみんなに通じているものだと思っている。私も妻も、子どもの時代から常に飼い猫のいる家に育っている。大人になり、社 会に出てゼネコンの働き蜂になった期間を除いては、ほとんど猫を飼っている生活であった。 猫を飼いたくて貰ってくるとか、血統の良い猫を買ってくるとかしてまで猫を手にいれるという程のペット好きでもないが、寄ってきた迷い猫や捨て猫に餌をあげたりするのが縁となり、自然にずるずると親しくなり、ついには家族になっていくというパターンが常であった。それでも家族になってしまえば、ペルシャであろうがシャムであろうが、日本の純粋な雑種であろうが、家族として相通じる心情はみな同じである。 そんなであるから、仕事の長期出張で工事現場の仮設宿舎に住んでいるときも、寄ってくる野良猫に残飯を与えるものだから、間もなく猫家族が出来てくる。 妻も私と同じで、人生の大半を犬猫と仲良くしてきた人間である。 それ故、猫に話しかけられれば、言葉を通訳することは出来ないけれど、猫が何を望んでいるのか、何を不満に抗議しているのかは直感的に分かる。
 本名、シューベルト(愛称しゅうべぇ)は、時々、夜中に外へ出たくなったと云い。気持ちよく睡眠をとっている私の枕許に来て私の耳元でニャア、ニャアと鳴き、わたしを起こす。私が寝たふりを決め込めば、顔の前に来て手(前足)で顔をなでるように叩くように触りながら「ねえ、玄関、開けてしょうだいよ。お願いだから。僕の力じゃ開かないから、お願い。」と、強引にねだる。私の寝たふり死んだふりは通用しない。「ねえ、起きてるんでしょう。寝たふりしてないで起きて!。ねえ、お願いだから。」と、相手もなかなか諦めない。  しゅうべぃの根気に負けて、薄目を開けてしゅうべぇの顔を見ながら「なんだ?どうしたんだ?うるさいぞ。何を言ってるんだか猫語は分からないよ。」と、寝ぼけ顔でとぼけるが、そんなお粗末な演技で切り抜けられる相手ではない、「にゃあ、僕のお願いは分かっているんでしょう!お願いします!。にゃあがいします!」一度起き出すと寝付けなくなり、明日は寝不足で苦しい日になるかも知れないというリスクもある。ここは、出来ることなら眠気の切れないうちに熟睡しておきたい。それゆえ、愛するしゅうべぇのお願いも振り切って、眠っておきたいのだ。しかし、結果はいつもわたしが負ける。 同じことは、妻の身の上にも毎夜のように起こっている。妻には会社に出ている時間を除いて、家にいるときは一時も側を離れないベートーベン(愛称ベン)がいる。 ベンも、やはり毎夜、いや毎日、早朝5時になると、必ず妻を無理矢理起こして玄関までエスコートして行き、玄関の重い引き戸を開けさせるのが日課だという。妻は会社にとってはドル箱の働き手である。大型プリント作業をリードする画像のCG処理は彼女の腕に依存している。手抜きの出来ない仕事を抱える彼女には、やはり、寝不足の原因になるベンの外出には手を焼いている。しかし、彼女の場合は、ベンに対しては、わたしと違い誠実である。それでも、眠いときは布団をかぶってベンから逃げようとするが、ベンはそれを許さず、爪をかけて掛け布団をめくり上げ、「にゃあ、」と声をかけながら前足で妻の頬をぺたぺたと軽く叩きながら、妻の顔に頬ずりしたり冷たい鼻先を顔にくっつけたりしながら「おにゃがい!」「おにゃがい!」を繰り返すものだからどんなに眠くても目が覚めるのだという。
 しゅうべぇに起こされたわたしが、寝床から半身を起こして起き出すふりをすると、しゅうべぇは先に立って部屋の出口の方に向かい、途中で立ち止まり振り返りわたしを見る。わたしが猫の要望に応えて行動を起こしたが、それが本当に続行されているのか、その後の目的進捗度を確認しているのである。わたしが、しゅうべぇの後について寝床から出ると、猫はわたしを先導するように、振り返り振り返り玄関に向かって歩いて行く。 玄関の重い引き戸を一尺ほど開けてやると、しゅうべぇは「にゃあ」と一声を残してサ.ッと外に飛び出し、植え込みの方へ走り去る。 この時のしゅうべぇの「にゃあ」は、明らかにわたしに向かっての挨拶である。それはまるで、家族への親愛感情のトスに感じられ、猫語の「ありがとう」のようにも、「ご苦労さん」とのねぎらいの言葉のようにも聞こえる。  わたしが外へ出ようと玄関の戸に近づくと、戸の外で待機しているベンが、戸が開くと「にゃ」と、声をかけながら家に入る。この場合の猫語の「にゃ」は、何か親しい人間同士が「やあ」という軽い挨拶のようなニュアンスが感じられる。 わたしの耳に聞こえてくる「猫語」は、単語の数があまり多くはないように思えるが、同じ「にゃあ」でも、その時の状況で言葉の意味が変わるように思われる。  それより、猫たちにとって大事なのは、言葉の意味や解釈のようなものではなくて、声を出す意義は相手に自分の意思を伝えるための、パフォーマンスなのではないのだろうか?。猫たちは我々とは違い、直接意思が通じるならば、言葉の意味や解釈など必要がなく、少ないパターンの鳴き声で、本音で意思を通じ合っているのではないだろうか。