恐らく、当事者以外は誰も知らない事件がある。



事務所内ユニット対立の、水面下での争い。

すなわち嫌がらせや裏工作といった、表立って問題にならない陰湿な妨害が際立って来た頃。


上記の例を挙げるとキリがないが、簡単なものでは、それぞれの持ち物や私物への悪意。

エスカレートし悪質なものは、インターネットで大炎上を起こしたり、ライブやイベントに支障を来すまでに及ぶ。

勿論、その行為に異を唱え咎める者もいたが、焦りと妬みで満たされた時間を長く過ごした彼女らにとって、簡単に折り合いがつける筈もなく。

加害者も、被害者も、傍観者も、誰もが不安と苛立ちを募らせていた。



そんな中、明確な事件が起きていたことは、誰も知らない。








────────────


冬優子「………来たわね」

円香「早く済ませてください。……こんな遅くに、甚だ迷惑」


円香の悪態に、冬優子の口から特大の舌打ちが発せられる。


時刻は21時。事務所。

かつては夜遅くまで、事務員や社長、そしてプロデューサーが忙しなく書類やパソコンを眺めていた。

夜更けにも関わらず、時折漂うコーヒーの苦い香り。
その刺激も仕事のいいモチベーションになっていたようだ。



あのプロデューサーが退職してからはすっかりホワイト企業となり、17時過ぎにはほぼ誰もいなくなる。


現在21時。
とうに人の動きもなく、数時間換気もされていないため、重苦しい空気が漂っていた。


  
そんな暗く冷たい事務所のリビングに、冬優子と円香は退治する。



冬優子「ハァー………何の用か分かってる癖に…本当に腹立つ後輩ね、円香ちゃん?♡」


声色を変えて演じる冬優子に、特大の舌打ちが今度は円香から漏れた。


円香「まだ根に持ってるんですか?貴女のありのままの動画が出回ったこと」

冬優子「はあ?ふゆがそんなことでわざわざアンタと会うわけないでしょ。暇じゃないのよこっちは」

円香「暇だから、こうして暇人同士で駄弁っているのでは?」


互いに悪態をつき続ける。

相手への皮肉、暴言、悪態なら十八番だと、正直、自他共に認めていた。

時刻は21時02分。

2人が事務所内で邂逅してから2分しか経過していないが、既に彼女達は言葉で傷つけあい始めている。


ただ、今はそんな事はどうでもいい。
それこそ時間の無駄で、暇人のやることだ。


冷たく思い空気を入れ替えるように、冬優子は四人掛けのソファーに乱暴に座った。


冬優子「私はね、アンタに確認したいのよ」

円香「……はい?」

冬優子「だから、事実確認。それだけよ。事実じゃなかったら帰っていいわ」

円香「それだけの為にこんな時間に呼び出すなんて………非常識にも程があるでしょう」

冬優子「ま、悪いとは思ってるわよ。わざわざ来てもらっちゃって。もし私の考えが違ってたら謝るわ」


────でも…。


そう呟く冬優子が意図的に生み出している「不機嫌さ」はピークを迎える。
それは殺気と言い換えても過言ではない。


目を伏せる。

座りながら脚と腕を共に組み直し、再度顔を上げた。



冬優子「もし事実確認が取れたら……私はアンタを許さない」

円香「……まどろっこしい。早く済ませて」


座っている冬優子と向き合うように立つ円香。
腕を組み、眉を尖らせて冷たく見下ろす。


お互いに感情は波を立てず、ただただ冷たく鋭い視線だけが交差する。

無機質な薄暗い白色灯が、その冷たさと緊張感を助長するかのようだった。



冬優子「アイツの……あさひのマイクに小細工入れて歌えなくしたり、匿名で中傷DMを愛依に送りつけたのって、アンタ?」

円香「……………」


空気は文字通り凍りつく。

冷たい空気に、緊迫と殺気が蠢き始める。

獣のような低い唸り声のような冷たい問いに、円香は少々面食らってしまう。



────まず脳裏に浮かんだのは、「どこでそれを」、という疑問。

だがこれは大した問題ではないだろう。

前に座るのは黛冬優子。

自身のアイドル活動の為ならどんな手も使う、狡猾で陰険で、加減をしない女。

恐らく監視カメラか、盗聴か。
はたまた協力者でも雇ったか。


取り敢えず、この女の前に、言い逃れは不要で無意味。



第一、全て事実なのだから否定する気も無い。





円香「………で、私がやったと言ったらどうす」



冷たく淡白だった空間に、突如として轟音と莫大な熱が生まれる。

その熱という曖昧なエネルギーが、円香の言葉を『物理的に』遮った。



冬優子「ぶっ殺す!!!」

円香「ぁあ゛ぁッ!?」



激昂した冬優子の固い拳が、円香の整った顔面を一気に崩した。

顔面は紅く染まり、鼻血が吹き出し床を汚す。


5歩ほど後退り、勢いのままぶつかった食器棚から落ちたのは、複数のアイドル達専用のコップ。

事務員によってホット用とアイス用で整頓されており、各々の名前や印がついて大切に保管してあるようだった。

いくつかのコップが、ガシャンと耳障りな音を立てて無惨にも砕け散る。


が、身体にも頭にも熱を帯びた2人にとってそんな事は気にすらとめない。



円香「このッ……!!何考えて…!!」

冬優子「言ったでしょ……事実ならアンタを許さないって……!」

円香「回答になってない…!!いきなり殴り掛かるなんて…頭おかしいの…!?」

冬優子「黙りなさいクズ女っ!!」


獲物を見定めた猛獣が、『今なら殺せる』と確信したように、危険な速度で円香に掴みかかる。

構えていない状態で意識外から冬優子のタックルを受けていれば、それだけで骨が折れてしまいそうな勢い。



激しい揉み合いの末、容易く倒されたのは円香だった。

当然といえば当然だろう。

勢いづき突っ込まれたことに加え、体重差はそう簡単には埋まらない。

ましてや冬優子は、日常的にレッスンに真剣だった方だ。
人並み以上には鍛えており、19歳という年齢は筋肉も身体つきも高校生のそれとはクラスが違う。



円香「ぐっ……!!」

冬優子「はぁ…はぁ…!『ふゆ』じゃない動画を配信アプリでばら撒いたのもアンタね?」

円香「だったら何…!!離せっ!!」


フローリングで揉み合い倒れながら、ガン、ガンと冬優子の顔面に拳が飛ぶ。

だが、形勢は逆転しない。

容易く冬優子は円香を組み伏せる。



冬優子「っ……私は良い……!!私はそれぐらいじゃアイドルを辞めない……!」

マウントを取りながら、拳を構える。


冬優子「でもね…アンタのせいで歌って踊れないあさひが……!ファンから失望されたと勘違いした愛依が……!どれだけ失意に堕ちたかアンタ分かってんの!?」

円香「うぐッ!?ぐふッ!!んっ!?」

冬優子「だからっ!絶対!アンタだけはっ!許さないッ!」

円香「イヤッ……!ぁあぁぐっ!!ん゛ぁッ!!」


何発も円香に鉄拳が落ちる。

冬優子の拳は女性とは思えないほど重い。
おおよそ人間同士のぶつかり合いとは思えぬ打撃音が、誰もいない事務所に木霊する。


熱と殺意を帯びて、仇を前にした冬優子の硬く重い拳は止まらない。
獲物を仕留める獣が如く、幾度も円香の顔面に落とされる。

自身が組み伏せている円香が、自分と同じく人間であることすら忘れているようにも見えた。



だが、これで負けを認め、無様に殴られ続けるほど、樋口円香に激情が無いわけも無く。

冬優子同様、その怜悧な瞳に凄まじい熱を纏わせた。


揉み合いで落ちていたテレビのリモコン。

殴られながらも手に取り、冬優子の顔面。

小鼻の中心を『突いた』。



冬優子「う゛うぁッ!?」

円香「ハァッ…!ハァッ…!!いつまでも乗るな……退けッ!!」

冬優子「ぐぅッ!!」


再度テレビのリモコンで冬優子の頬を叩き飛ばし、蹴りで押しのける形で一気に立ち上がる。


次いで駆け出したのは、先程食器棚から落ちて砕けた、もはや誰のものかも分からないアイドルのコップのかけら。


人様の私物だと言うのはとうに忘れた。
鋭利な切っ先で指が切れてしまうのも厭わない。

そして怒りのまま、激情のままに凶器と化した割れたコップを握りしめた。


刹那、一瞬の躊躇いもなく、



円香「……ふッ!!」

顔を抑えてうずくまる冬優子に向けて、鋭利な破片を力の限り投げつけた。




円香「…………ハッ…!ハッ…!チッ…!」

冬優子「ッ……!!
へぇ…アンタにそこまで覚悟があるなんて知らなかったわ……!」



円香が投げた凶器は外れ、再び床に叩きつけられて文字通り粉々となる。

事務員が掃除だけはしているのか、整えられた棚は崩壊し、綺麗なままの床を傷つける。

互いに鼻から流血しており、特に鈍器で突かれた冬優子の足元にはポタポタと血溜まりが出来るほどの出血だ。



冬優子「………フン。いいわよ、凶器でも何でも使えば?その代わり、私はアンタをボコボコにするまでブン殴る」

円香「…………本当、無駄足だった」


円香は自身を落ち着かせるように溜息をつく。

そしてポケットに入れっぱなしだったスマホを数秒の操作ののち、耳に当てた。



冬優子「は?警察でも呼ぶわけ?」

円香「馬鹿なこと言うんですね。こんな現場、プロに見られて私に得があるとは思えない」

冬優子「………ま、それもそうね」


思わず息をつく。

余裕なのか、それとも余裕が無いからなのか。
冬優子は特に円香の電話を遮ろうとはしなかった。


円香「…もしもし。そう、事務所。
やっぱり、話した通りになった」


円香は息を強めに吐き、再び冷たい空気を纏い出す。

電話で相手の声を聞くごとに、冷たく淡々とした生粋の雰囲気を取り戻していく。

声色は落ち着き、紅潮していた顔貌に、冷たい感情が塗りたくられる。



円香「勿論。分かってる。……ジュースでいいの?………ああ、1週間分ね」


電話先の相手は、笑みすら浮かべてしまうほど安心する声で、今まで何日も、何年も聴いている声。



円香「じゃあ…………すぐに来て、雛菜」


電話を切り、机に置く。

髪を後ろに結び、ワイシャツの腕を捲りなおした。

円香は冷たい目のまま、再度交戦体制に入る。


円香「薄々、こうなる気はしてたので。近くで待ってて貰ってたの」

冬優子「ハッ、最初から2対1にするつもりだった?情けない女ね…………タイマンじゃ私に勝てないって訳?」


冬優子は分かりやすくファイティングポーズを取り軽くステップを踏んでみせた。

鼻からの出血はあるが、身体はまだまだ動くようだ。
対する円香は、先程マウントで殴られたダメージが大きい。


円香「貴女と不毛に殴り合っても勝ち目が薄い。だから備えただけ。こんな不毛な時間を少しでも早く終わらせる為に」

冬優子「不毛?違うわよ。私にとっては、アンタをぶっ潰せる最高に有意義な時間なんだから」

円香「………だったら、さっさと掛かってくればいいでしょ。雛菜が来るまで耐えれば……私の勝ち」

冬優子「馬鹿ね……アンタなんか雑魚、3分もあれば……ボコせるっつの!!!!


こいつに理性はもう必要ない。
理性なんて人間同士が持つものだ。

この女は人間じゃない。ただのクズだ。クズに理性も品も必要ない。

あさひと愛依を傷つけたこいつをブッ潰す。
理性を捨て、獣のように殴り潰すだけだ。

後先なんて知らない。
だってもう、後なんてないんだから。


怒りのままに、ガン!!とテーブルを乱暴に踏み蹴り、冬優子は飛ぶ。

そして空中から勢いよく円香に殴りかかった。



────────




そして、次に事務所のドアが開くまではそう時間はかからなかった。


雛菜が万一にと待機していたのは、事務所から5分程度のカフェ。

電話を切り、途中だったフラペチーノを一気に飲み干し、会計を済ませて走る。

事務所のポストから鍵を取り出し、階段を駆け上がる。

どれだけ見積もっても、円香の電話から8分も経っていない。



だが、その僅かな時間は。

冬優子にとって仲間の仇を討つのは充分な時間で、円香にとって目の前の猛獣をいなし続けるには長すぎた。 


立て付けが悪いドアを蹴破った先の光景は、かつての仲間とは到底言えぬ血生臭さで。




雛菜「……円香せんぱ…………」


円香「ひ……な…………」


トスッと、雛菜は持っていたポーチを落とす。

近くにたまたま転がっていた白く小さい固形物は、人間の歯だろうか。

よく見れば、赤い髪や黒い髪がそこら中に散らばっている。



冬優子「ハーッ…!ハーッ…!アハハッ…!遅かったわね………!!市川雛菜…!」


円香の端正な顔面は醜く腫れ上がり、片目は開いていない。

鼻の穴から血が滴り、唇も切れているようで鮮血が付着している。


更に、ワイシャツは破られ下着が露わになっている。

学校指定のスカートは履いているが、原型を留めぬほど乱れてもはや何も隠れていない。
下着や細い太腿の大半が晒されてしまっていた。

抵抗は虚しく、力は残っていないようで、冬優子に組み敷かれたまま脱力しているようだ。


たった7分間で、円香の激情は完膚なきまでにかき消された。

もう勝てない。それだけは確信できる。
私では、この猛獣には勝てない。


あえて陳腐な言い方をするなら、理性をかなぐり捨て『キレた』冬優子を、円香は止められなかった。




血と痣だらけの円香にまたがり、鍛え上げた両腕で首を絞める冬優子。

が、彼女にも多くの掻き傷・噛み跡、出血が見え、決して無傷などではない。

下に敷かれている円香の必死の抵抗があったのが見て取れた。



そして、それらを一瞬で察した雛菜は、床を飛び蹴り走り出す。

その様は、まさに猛獣を仕留める猛獣の如く。

怒声と共に、拳を振り抜く。




雛菜「退けぇぇぇえええええっっ!!!」

冬優子「お゛ぅッッ!!?」


ガシャアアアン!!!

冬優子の重い身体は簡単に吹き飛び、激突した食器棚を歪ませ破壊する。

ドアに嵌められていたガラスと、陶器製の食器がいくつも落下し、身体に更に傷をつけた。


雛菜「円香先輩っ!!
大丈夫………じゃないですよね〜………ごめんなさい……遅くなっちゃって………」

円香「……で…も………もう大丈夫……でしょ……」

雛菜「…!!」

円香「……ざまぁ……みろ………!
私の………私達の………勝ち……!」



それは敗者の戯言ではなく、高らかな勝者の笑みだった。

円香は上体を抱き抱えられながら、床に転がる冬優子を見下すように一瞥する。

そこで意識が限界だったようだ。



円香は薄れる意識の中で確信する。

激昂し理性を忘れた猛獣に、私は食われはしたが時間は稼げた。 


それだけで、私の、私達の勝利だと。




次は、猛獣を狩る猛獣が、貴女を食い殺すだろう。



市川雛菜。

ノクチルの中で…………
いや、今まで出会った人間の中で、最も獰猛で、強い女。




冬優子「うぐっ……ふふ……!あははははっ!アンタまで……私に負けにきてくれたのね…!!」

雛菜「…………終わったら、病院いきましょうね、円香先輩」

冬優子「そいつだけじゃ無いでしょ?アンタもおんなじ救急医を困らせに行きなさ…」

雛菜「黙れよ、ゴミ」


雛菜は羽織っていたカーディガンを、意識を失った円香の身体に優しく被せる。

本当は早く病院に連れて行きたいし、こんなになるまで腫れてしまった顔を隠してあげたい。


でも、それよりも。

今はやる事がある。



雛菜「………あは〜」

冬優子「死ねっ!!ノクチル!!」

雛菜「………そっちが死ねば〜?」


────────


これは、当事者しか知らない、しかし明確なる事件。


所属アイドル3名によるこの暴行事件から数週間後、事務所社長から件のユニット代表者による決闘配信の話が持ち出される。

決闘配信が始まる以前より、2人のアイドルが病院送りになったこの凄惨な事件は、当事者の黙秘により誰にも知られることなく過ぎ去った。



樋口円香、黛冬優子。

入院期間もあり、医療費もそれなりの金額であったが、2人は誰にも告げずに抱え込んだ。

それは事件性に発展する恐れか、敗北者なりの意地とプライドか。




いずれにせよ、事件の当事者である市川雛菜。

そして、事件の様子を張本人からぺらぺらと聴かされた和泉愛依。


2人よる決闘配信は、激化を極めた。