買い物してると、
「ママー、ねえねえママー」
と母を呼ぶ幼い子どもに出くわします。

長男が赤ちゃんの頃は、そんな姿を微笑ましく見ていたものです。私も1年後くらいにはこの子に『ママ』って呼ばれてるのかな、それとも『お母さん』かなあ、と未来の自分に思いを馳せながら。

それがいつしか、1歳の子はこんなにできるものなの?という焦り、そしてなんとなく思い描いていた未来は来ないんだという絶望に変わっていきました。

『ママ』でも『お母さん』でもいい。
我が子に呼びかけられたい。
ほんのささいな願いだと思っていたのに、長男には高すぎる壁のような課題でした。
人間がことばを操って他人と関わるってすごいことなんだ、と初めて思い知らされました。子どもなんて勝手にことばを覚えていくものだと思っていた私では、普通に生きていたら絶対気付けなかったことです。

思えば、当たり前と思っていたことが当たり前でないと気付く時って、なにかを失った時であることが多いような気がします。病気になって健康であることの有り難みが分かるとか、家族を亡くして何気ない日常がいかに幸せだったと気付くとか。

私はそもそも長男の話している姿を見たことがないので直接なにかを失ったわけではないのかもしれないけど、長男と何気ない会話を交わす、という来るはずだと思っていた日常は失ってしまった、そういった意味で喪失感はあります(いわゆる『期待した子の死』というやつです)。
でもそのおかげで、人と気持ちを通じ合わせ、会話ができるって幸せなことなんだなとも気付くようになりました。

…まぁ、本音言えば、そんなこと気付きたくありませんでしたけどね(´-ω-`)