皆さま、こんにちは!
また寒さが戻ってた感がありますが、いかがお過ごしですか?
本格的な春が待ち遠しいですね。
先日、
『抹殺された日本軍恤兵部の正体
-この組織は何をし、なぜ忘れ去られたのか?』
という本を読みました。
この本で初めて知った「恤兵(じゅっぺい)」という言葉。
漢字さえ見たことがなく、その物珍しさと、「抹殺された」という語句に好奇心が刺激され、読んでみた次第です。
「恤」という字には「めぐむの意」があり、「恤兵」とは「物品または金銭を寄贈して戦地の兵士を慰めること」という意味だそうです。
(本書「はじめに」より)
今でこそ耳にしませんが、戦争を知っている世代にはなじみのある言葉のようです。
意外にも、一発で変換できますしね。
「恤兵部」が陸軍省に初めて開設されたのは、日清戦争が始まる直前の明治27年だったとのこと。
その後、日清戦争が終結した明治28年まで存続するのですが、日露戦争で再び開設・閉鎖。
そして満州事変でまた開設してからは、一旦活動停止するものの、日中戦争で再開し、戦局が混沌としていく中で、海軍省にも恤兵係が開設され、規模や性質が変化していきます。
兵士慰問のための恤兵献金品を募集する、恤兵部。
著者であるフリー編集者で中央大学経済研究所客員研究員の押田信子氏は、恤兵部という組織の存在意義、恤兵部が担った役割や陰の部分を、10年もの歳月をかけた独自の調査で、あぶり出しています。
お国のために戦う兵士のために、なにかしら送りたいと思う人々がいるのは、当然のことですよね。
当時の新聞には、国民が恤兵に熱狂する様子が、頻繁に掲載されています。
それは美談ではあるのですが、マスコミが軍と結託して煽りつつ、国民の純粋な気持ちを利用し、大衆が自発的に戦争を支援するように仕向けるという、恐ろしい人心操作でもあった模様。
本来は「募集」とゆるい雰囲気だったのが、同調圧力で半ば強制になっていき、学校や工場なのどでは、ノルマさえ課せられるようになります。
戦後の資料を見ると、満州事変から終戦まで受理した恤兵金は、なんと1億5763万9千円にものぼるとのこと。
現在の消費者物価指数(CPI)は、1945年当時からザックリ150倍以上とのことですから、莫大な金額ですよね!
このほかにも、慰問袋や医療品、武器などの恤兵品、さらには芸能関係者や芸術家の慰問と、金額では表せない銃後の献身も忘れてはいけません。
まさに、国民一丸となって戦っていたということになります。
こんなふうに仕向けた軍や政府、マスコミは、確かに罪でしょう。
戦後、大本営発表にだまされたと思った国民が多いことを考えれば、ひどい話ですよね。
ただ、同調圧力がなくても、本当に心からなにかしたいと恤兵に協力した人もいたのでしょうし。
難しい問題だ……。
突き詰めて考えると、そもそも戦争とは、となって、あの戦争の是非というところにまで行ってしまいそうです。
見えない圧力で大衆を動かそうとする影の存在は、いつの時代にもあって、現代でもなんだかいろいろと。
著者も、
「あの恤兵が動員システムとして、作動していた時代と、現代はよく似ていないだろうか」
と問題提起をしています。
(ちなみに、例の流行り病が出てくる直前に書かれた本です)
いつの世も、大本営発表とメディアの意図を疑う目は持っていたほうがよさそうですな。
それを再確認する上でも、この本は本当に貴重で、丹念に調査された押田信子氏に、心から敬意と感謝の意を表します。