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裁き

ミステリー集


 南春信にとって、自宅とは単に寝るための場所でしかなかった。少なくとも、ほんの一ヶ月ほど前まで、春信はそう考えていた。六畳一間の部屋は、敷きっぱなしの布団とテレビが置いてあるぐらいで、まるで生活感がない。カーテンの全く掛かっていない部屋の中は、まるで空き屋のように外から丸見えだった。どうせ寝るだけだから、そう考えていたからこそ、部屋の中には必要なものだけしかなかったのだ。

 春信は八時ごろ帰宅する。もう三月も終わりだというのに、外はまだ肌寒かった。春信は、暖房の温度を上げると、暖気がよく当たる場所に布団を移動して、そこで胡座をかいた。テレビの電源を入れると、コンビニで買ったおにぎりを一つ、勢いよく口に放り込んだ。晩酌のビールをちびちびと飲みながら、テレビの音を子守歌代わりにして、いつものように眠りについた。


 携帯電話が振動している。春信は、寝ぼけ眼でゆっくりと体を起こすと、床に置いてあった携帯電話を取った。

「はい、南です」

 電話の相手は何も言ってこない。春信は、もしもしと呼びかける。電話の相手は何かを喋っているらしいが、電波の状態が悪いのか、声の通りが良くない。

「えっ? 済みません、よく聞こえないんですけど……」

 春信はくしゃくしゃと頭を掻く。

「南さんですか? 時田です」

 それは聞き覚えのある声だった。

「時田さんだったんですか……」

 春信は我知れず声を曇らせた。

「済みません、夜分遅く」

 そう聞いて、テレビに目をやる。十時のニュース番組がちょうど始まっていた。春信は床にあったリモコンを取ると、テレビの音量を下げた。

「いま、お時間、ちょっとよろしいですか?」

 時田は、春信が登録している派遣会社の社員である。時田はまだ四十歳そこそこだったが、年上とは思えないほど腰が低く、言葉が丁寧だった。

「ええ」

 春信は短く答えた。

「済みません。実は、退去のことなんですが……」

 時田はそう言って話を切り出した。

「わかっていますよ。一週間以内に退去すればいいんですよね?」

 昨年末から続く金融危機の影響で、春信は雇い止めを受けていた。今月末で終了する契約を最後に、それ以降の更新はないと通告されたのだ。一ヶ月前のことだった。当然、派遣会社は部屋から退去するように迫ってくる。春信は、契約が終了してから一週間以内に、部屋を退去すると時田に約束していた。

「それで、実は——」

 時田の様子が何かおかしい。春信は、時田を信用して、単なる口約束で済ませていたことを後悔し始めていた。

「実は、手続きの都合があるので、何とか今月一杯で退去できませんかね?」

 案の定、時田はそんなことを言い出した。

「無理なこと言わないで下さいよ、時田さん。一週間以内という約束だったですよね? それに仕事だって、まだ三日残っているんですから。それとも、明日からもう行かなくてもいいんですか?」

 春信はつい愚痴っぽく言ってしまった。

「やっぱり、無理ですか?」

 時田には時田の事情がある。そんなことは十分分かっていたが、春信としてもいまさら引くわけにはいかなかった。

「ええ、無理です。それに、引っ越し業者にも連絡をしていますから、いまさら変えてくれって言われても困ります」

 春信は嘘をついた。そんな嘘を知ってか知らずか、今日の時田はしつこい。

「引っ越し業者ですか? そこを何とか変更していただけませんかね?」

 もし春信が今月で退去をしなければ、時田が上司から咎めを受けるに違いない。春信はつい、変更はできると思いますが、と言ってしまう。

 しかし、そこまで口に出しておきながら、春信は突然考えを変える。春信にしてみれば、一番の被害者は自分なのだ。どうして、時田のために譲歩する必要があるんだと憤った。

「いい加減にして下さい! とにかく、無理なものは無理なんです!」

 春信は声を張り上げた。その急変ぶりは、時田にとって、春信が切れたと見えたに違いない。時田はすぐに言葉を返してこなかった。

「そうですか、わかりました」

 かなり間があいて、時田がようやく折れた。

「一週間以内でいいんですね?」

 時田はええと言いながら大きな溜息をつく。春信は、はっと我に返り、少し言い過ぎたかもしれないと不安になった。口では色々と言えても、派遣会社に歩があることは明らかだ。いざとなれば、何とでも難癖をつけて、明日にでも寮から追い出されるかもしれなかった。そうなってしまっては元も子もなくなってしまうのだ。

「ところで、離職票はどちらに送付しましょうか?」

 すぐに春信はほっとした。声を聞く限り、時田はそれほど怒っていない様子だったからだ。

「実家に送って下さい」

 春信は何事もなかったかのように振る舞った。

「わかりました。それでは」
「ええ、お休みなさい」

 春信は電話を切ると、大きく息を吸い込んだ。しばらくの間、テレビの方を見ながら、あれやこれやと考え事をしていた。