ちょっと絵筆が達者だと(筆は使えないけどかっこつけて言ってみる笑)、
針仕事(なんてもの)より絵を描けばいいって言われることが割にあって。
どんな心理かなって考えてみると、針仕事よりも(目的のある単純な作業よりも)絵を描くことの方が素晴らしいというか、崇高っていうのかな、そういう一般的な前提もあるんだなぁって気がついた。
逆に、針仕事のほうが実益があって絵画なんかより役に立つとかも一緒だけど。
絵にもいろいろあるけどさ、
私が描くのは、気持ちを言葉に置き換えるようなコツコツとした作業の結果に出来上がるものなんだよね。
目から入る情報をそのまま紙の上に写し取るようなこと。写経みたいな感じかな。精神上は、ほとんど刺し子してる時と変わらない。
他にはメッセージ性のある絵もあるけど、メッセージが入ってるのは広告かなー。ポスターだよね。一枚の絵は1000の言葉に値するだだっけ。美術のなせる技。
あとはさ、爆発してるやつ。この絵はまごうことなき芸術だと思う。これは、描こうと思って描けるもんじゃないよね。ほとんど頭空だもん。ほぼエネルギーがのってるだけ。見た人がそれぞれに解釈してメッセージを受け取ることはあっても、描く側はもうバーンッボーンッって感じ。
って言ったら語弊があるかな。ちょっとやけくそ。あとは、有無を言わさぬエクスタシーの放出。それと、痛み。産む痛み。
鉛筆が一本あったら、
その本来の使い方の執筆で気持ちを書き留めるような日常的なことから、
単に指先を動かして軌道を見ることや、
美しさや残酷さを視覚的に表現することや、
ただただ感情を紙の上にぶちまけるなんていう、いろいろなことができる。
針の一本があっても、やっぱり同じようなことになるのかな。
針の本来の使い方は縫い合わせることだけど、
針を使う指先の感覚を求めて針を持つ人もいれば、
針目を使って印にしたり、さらに視覚的に美しさやステイタスを魅せることをしたり、
感情のあるがままに針を動かすことをしたり。
私にとってはやっぱり針も鉛筆も同じようなものだな。ただ針の方が身体に馴染んだだけで。
だから、なんていうか。崇高な描画と作業としての針仕事を天秤にかけてるわけじゃなくて、(その、わざわざそっちを選んでるとかじゃなくてね)。
針は、私のいろんな欲望をまんべんなく満たしてくれたっていうだけなんだよね。
縄文土器だってさ、もともと崇高な芸術的価値のあるものとして誕生したわけじゃないでしょ。本来使うことを目的に作られる器に人のエネルギーがのったらあーなった。
当時としては凝った器くらいでしょ。
やっぱりね、あれだと思う。
芸術に幻想を抱きすぎ、お金に幻想を抱きすぎ。
私は針仕事のことを芸術と比べて卑下することもしないけど
芸術を雲の上の存在にすることもしない。
芸術はもっと身近なものなんだけどな。
芸術の世界を回してるのは男の人だと予想すればそれもしょうがないのかもしれない。もしかしたら男の人は子供を授かってこの世に産み出すことに憧れたりするのかも。都会に住んで数字を追う生活をしていると自然を身近に感じることが難しかったりするのかもしれない。芸術を身近に感じる機会が少ないのかもしれない。
(男の人には産む痛みがわからないという話ではなくて、文面には無いけど産む痛みを知っている女性の中にも、(あと産む体験をしてないからって想像できない人もね)その感覚を忘れて頭でっかちになってるよねっていう結局アンチテーゼか笑)
お金が巡るのは血のめぐり、
芸術は命の誕生や感情の激越。
命の誕生に血液が馬鹿必要なのと同じて、芸術だって産まれたらお金が動く。
いくら世の中を人間の頭脳で管理して(ると思い込んで)、あれはくだらないとかあれは素晴らしいとかやってたって、結局自然の中にいることを自覚してほしいわ。
自覚してほしいわなんて、
誰かに訴えかけてるみたいな口調だけどこれは明らかに自分が言われてることば。
芸術(金)に憧れや幻想を抱いてる俗に言う男社会(人に評価されてなんぼ)の人たちに、出産の生々しさを分からせるとかの話じゃなくて、
自分自身がその土俵から出て自分の感覚を信じて針と布(音楽だろうが絵だろうがなんでもいいんだけど)に向き合うことが自然と一体になることだって気がついた話。
そんでほんとの芸術もその先にあるよなってことかなー
芸術を日常から切り離さないでね
芸術は、自分のそれまでの概念を突破する時のエクスタシーと痛みを伴う体験の積み重ね。
人類はみな自分という題材に生涯向き合わなきゃいけない芸術家だと思ってるよ。