この人は、いろいろ話しても大丈夫だろうか

 

この人は、話を聞いてくれるだろうか

 

この人は、私をわかってくれるだろうか

 

この人は、私を支えてくれるだろうか

 

 

 

 

 

 

もう、心が痛む思いはしたくないから

 

もう、裏切られるのは嫌だから

 

もう、疲れたから

 

 

 


もう、安心したいから。

 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

この人なら、いろいろ話しても大丈夫だと思ったのに

 

この人なら、話を聞いてくれると思ったのに

 

この人なら、私をわかってくれると思ったのに

 

この人なら、私を支えてくれると思ったのに

 

 

 

 

 


またこうして心が痛む

 

まあこうして裏切られる

 

また疲れる日々の繰り返し

 

 

 

 


こうやって、いつまでも私は安心に辿り着くことができないんだ。

幸せになんてなれないんだ。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

30代後半まで、わたしはこれの繰り返しだった。

 

 

心のことを書いてある本やブログを読み漁った。

心のことに関係する講座もバカみたいに受けまくった。

 

 

 

 

だから、知識だけはどんどん増えていった。

しかし、現実は、なんか、なんとなく、スッキリ感がない毎日だった。

 

 

 

 

その時は、

 

講座受けてるから大丈夫。

いろいろ覚えたから大丈夫。

◯◯さんのセッション受けてるから大丈夫。

 

みたいなお守りを信じるようにしていた気がするよ。今思うと。


 

 


 

でも。

 

そうじゃない気がしてきたんだ、何となく。

同じことを何度も何度も繰り返していることがおかしい、と思うようになった。

 

 

 

 

 

じゃ、何をどうすれば同じことを繰り返さないようになるのか。

今の知識ではそれがないわけだから、別の情報を手に入れて試すしかない。

 

 

 

 

そう気付いた時、実はその『別の情報』というものを既に手に入れていた。

 

ただ、それがその『別の情報』だという自覚がなかったから、今までのものと同じように扱ってしまうトコロだった。

 

 

あっぶねー。汗


 

 

 

 

 

 

 

で、

振り返ると、

 

 

わたしが出会ってきたメンターたちは、表現方法が違うだけで同じことを言い続けてくれていることに気付いた。

 


 

 

 

 

 

 

 

…そうか。

全てはわたしの捉え方なのか!!!

 

 

 

 

 

 

 


気付いたのは、ホント、ここ数年の話。

気付いたら、そこからは早い。どんどん変化する。


 

 

 

 

 


この人は、私が心を開いても大丈夫な人だろうか。

ではなく。

 

 

わたしは、この人と関わりたいのか。

周りの雰囲気で、惰性で、仲良くしたほうがいいと思い込んでいないか。

また同じような人間関係で悩みたいのか?わたし。

 

 

 

今まで意識したことがなかった側面から『自分を観る』ことの練習をすることにした。今まで練習中。

 


練習を続けることで、友達という大きすぎる括りが解けて、友人と知人の境が自分の中ではっきりしてきた。

だから、人間関係で疲れることがなくなってきたよ。

 

仲良くなりたいタイプ

苦手なタイプ

ハッキリわかるようになったからね、人間関係がとっても楽になった照れ

 

 

ほら、今までは、嫌われたくなくて相手の顔色見て一緒にいたからさ。

 

 

 

 

 

 

私は、私に心を開いているのか。

私は、私という存在を認めているのか。

 

 

周りに認めてもらっても信じ切ることができないのは、わたしがわたしを認めていないから。

だったよ。

 

 

 

 

書き出したからわかったこと。

話したからわかったこと。

 

言葉で、文字で、自分のことを自分が知ることからやったから、見えてきた世界。

 

 

 

ほとんどの人が、『やってみる』と言ってやらないやつね。

(『自分なりにやってるもん』は、『自分なり』だから変わらないんだけどね、もう何も言わないことにした。)

 

 

 

 

 

やれば変わる?変わることができる?

 

 

そうじゃない。

 

 

変わりたいのならやってみる。

んだよ。